長期連載‐国内

(40)あなたの分身じゃない 母との葛藤、もがく日々

※この連載は5月17日に岩波書店から『迷いのない人生なんて』として刊行予定です

 薄暗い舞台に2人の女性。1人は座ってピアノを弾くしぐさ、もう1人はその様子を背後から見ている。役柄は娘と母だ。「もう一回やり直し」。母の言葉に、娘が半泣きの声で応じる。「お母さん、もうやめよう」

 「だめよ、お母さんはね、何か一番になれるものを身に付けさせてあげたいのよ。さあ、できるまでやりなさい」「私は一番じゃなくてもいいよ」。母の声が怒気をはらむ。「聞き分けの悪い子ね。弾けるようになるまで、そこにいなさい」

 去って行く母。「ちょっと、お母さん、出して、出してってば」。娘の悲痛な叫びが、がらんとした空間に響き渡る。

 2018年4月、大阪市で上演された「シルバー・ニア・ファミリー」。大阪府東大阪市を拠点とする劇団「プラズマみかん」の公演だ。娘を演じていたのは、作・演出を手がけた劇団代表の中嶋悠紀子(なかしま・ゆきこ)(39)。高齢者問題や親子関係のゆがみを描いたこの作品には、個人的な体験が色濃く投影されていた。

 

【自作の小道具などが並ぶ稽古場でインタビューを受ける中嶋悠紀子。あふれそうな涙をこらえた=大阪府東大阪市】

 ▽ピアノと居場所

 中嶋は2歳でピアノを始めた。教えたのは、自宅で教室を開いていた母だ。やりたかったわけではない。「先生の娘やから、人より上手に弾けないと」。そう思って練習を続けた。4歳の頃、七夕で将来の夢を短冊に書いた。魔法使いサリーになりたかったが、母は「ピアニストになりたいと書きなさい」。

 書くと、周囲が「さすが、先生の娘さんやねえ」と感心し母も喜んだ。だから母の目があるところでは「ピアニストになれますように」。本当に願ったのは「うその夢はかないませんように」。

 母は「女は手に職をつけなさい」と繰り返した。それがピアノだった。音楽に親しむのではなく、職業人にするために課した厳しい練習。母が思い描く人生プランから外れることは許されない。

 ピアノの練習が好きではなかった。けんかが絶えず、よく泣いて抵抗した。2階の窓から楽譜を投げられ、外に出されたこと、練習室に閉じ込められたことも。

 ただ、愛は感じた。自分を大事に思っている気持ちも分かる。母はよく言った。「あんたは私の分身やから」。でも、気持ちを分かろうとはしてくれない。父は口を挟まず、ピアノを弾いていないと、この家に私の居場所はない。

 中学3年の時、友達の言葉に衝撃を受けた。「私、ピアノが大好き。1日7時間でも8時間でも弾いていられる」。絶対、自分には無理だ。私はピアノが好きじゃない。「こういう子と勝負できない」。味わったのは大きな挫折感だった。

   

【1歳の誕生日を迎える前から、自宅のピアノで遊ぶ中嶋悠紀子=大阪市内(本人提供)】

 ▽物語を作る

 小さな頃から物語が好きだった。布団の中でぬいぐるみを相手にお話を作った。追い詰められていく心を救ってくれたのは吉本新喜劇。舞台女優に憧れた。高校でようやく演劇部へ。ピアノの練習を欠かさないことを条件に入部が許された。

 やはり演劇は面白かった。「これなら7時間でも8時間でも大丈夫」。あまりに楽しく、約束が守れない。ここで腹をくくるしかない。意を決してピアノをやめると告げた。母は「何時に帰ってきても、練習すると約束したやんか」と責めたが、決意が固いことを知ると、その場で泣き崩れた。

 大学では演劇を専攻し、06年にプラズマみかんを立ち上げた。もがきながら作品を作ってきたが、いろいろな人と接し「自分の抱えている生きづらさは特別ではない」と分かった。誰でも違う形のしんどさがある。自分も別のものを抱えたかもしれない。みんなの生きづらさは、演劇という手法で共有できる。そんな思いが中嶋の作品には流れる。

   

【稽古場でインタビューを受けるプラズマみかん主宰・劇作・演出・俳優の中嶋悠紀子(左)と俳優せせらぎよし子=大阪府東大阪市】

 ▽自分を切り刻む

 ある日、演劇仲間が「もし母親が倒れたら芝居をやめて実家に帰る」と話した。中嶋は考えた。自分にそれはできないかもしれない。でも母を捨てることもできない。

 そこで気付いた。母を幸せにしてあげられなかったという罪の意識が今も残っている。それで作ったのが「シルバー・ニア・ファミリー」だった。「自分を切り刻むような創作。つらくて心に負担がかかって」。ただ、自分にとって大切な「舞台」という形で問わずにはいられなかった。

 派遣社員として働きながら演劇を続けてきた。家を出て結婚した後も母とは衝突した。感情が爆発し「あのつらかった時間を返してほしい」と手紙でぶつけたことも。

 母から「子どもを産んだことがないから親の気持ちが分からない」と言われたことがある。今年、中嶋に長女が生まれて反発心が頭をもたげた。「娘が望んでいるかどうか、なんとなく分かる。私がピアノに乗り気じゃないのは分かっていたはずなのに」

 母は「あんたは私の分身」だと言ったが、私はこの子を分身だとは思わない。とても近くにいるけど、他者だ。私も母の分身じゃない。

(敬称略、文・西出勇志、写真・今里彰利、2023年11月4日出稿、年齢や肩書は出稿当時)