長期連載‐国内

(36)息苦しさ、乗り越えて 放浪から「ネクタイ菩薩」

 インド・デカン高原の大地を乗り合いバスが走る。1980年、東大3年生だった中野民夫(なかの・たみお)(66)は、バスの最後部に1人で座っていた。

 人々が降りては乗り、また降りる様子をながめる。外には羊や牛がいて、のどかで雄大な景色が広がる。この人たち、この光景に二度と遭遇することはない。今ここにいる不思議、人間や自然へのいとおしさがこみ上げて涙があふれ、万物との一体感に包まれた。

 バックパッカーとしてアジアを放浪してきた。精神世界にひかれ、インドの瞑想(めいそう)指導者に弟子入りも考えた旅だったが、バスで特別な体験をした。もうその必要はない。

 旅の途中、急性肝炎で長期入院を余儀なくされ、病床で突然頭に浮かんだのは、意外なことに「企業に入ろう」。放浪から現実の競争社会へ。大きな意識の転換だった。

 

【屋久島南部にあるモッチョム岳(後方)の麓に建てた「本然庵」の庭で、語りかけるような自作曲を披露する中野民夫。スナフキンですから、と少しだけ照れた】

 ▽自己解放の旅

 暮らすように世界を旅した中野が感じたのは「どこにでも日本製品がある」。現地の人々は日本製品について親しげに話しかけてきた。一方、利益追求に奔走する姿は、エコノミックアニマルとの厳しい批判も呼んでいた。そんな日本企業を中から変えていきたい。

 社会問題への目覚めは高校時代だ。「共産党宣言」を読み、革命を志向したが、東大に入って目にしたのは新左翼セクトの凄惨(せいさん)な内ゲバだった。ここに未来はない。

 大教室の一方的な講義にも幻滅した。ただ、社会学者の故見田宗介(みた・むねすけ)による「自己解放」の思想には共鳴し「主体的に生きるには、授業ではなく旅だ」と胸が熱くなった。入学後間もなく休学。期間工で稼ぎ、77年秋、最初のアジアの旅に出た。

 3度目のインドで得た会社員として働く構想。目指したのはネクタイを締めた菩薩(ぼさつ)だ。「現代の菩薩は寺や山の中にいるのではなく、浮世でスーツにネクタイ姿で修行し、人々のために最前線でがんばる」

 卒業後は広告大手の博報堂へ。厳しさで知られた大阪での営業職を希望した。「修行だから恐れ知らず。この就職の旅は冒険のしがいがある」。だが、甘くはなかった。

 配属先には年の離れた上司がいた。服装や社会人としての行動に極めて厳格な人だった。バックパッカーの自由な暮らしとサラリーマン生活の落差が耐えがたく「とにかく息苦しかった」。半年で体重が5キロ落ち、白髪が増えた。「もうやめたい」。家族に何度も相談し、会社に内緒で塾講師も始めた。

 親しい友人の母親が大阪に来た。意気揚々と、「ネクタイ菩薩」を宣言した相手だった。弱音を吐くと、「民夫君、それは百も承知で入ったんじゃないの?」。

 胸を突かれた。「ネクタイ菩薩」を志した以上、途中でやめられない。ただ、実績がないと、やりたいこともできない。今まで以上に仕事と向き合ったが、会社の仕事だけでは当然、充足感は得られない。中野は社外での活動を活発化させる。

   

【1992~93年ごろの中野民夫。猛烈に働きながら社外での活動も続けた=東京都内(本人提供)】

 ▽二足のわらじ

 取り組んだのは、地球環境や平和問題だ。88年、四国電力伊方原発で出力調整試験が行われた際は、現地での抗議デモにも参加した。平日はほぼ終電で帰宅する猛烈社員、休日は市民活動。二足のわらじを履き続けた。

 自らの中で環境問題への比重が高まり、上司に「環境を視野に入れなければ広告業界も立ちゆかなくなる時代が来る。留学させてほしい」と頼んだ。会社の制度にはなかったが、一生懸命に働いて成果を上げてきたため、中野の希望は認められて休職。米国の大学院で3年近く学んだ。

 帰国後は市民活動と会社の仕事が乗り入れる形になり、環境意識啓発などの業務を請け負う。かつては社内で環境問題を口にすると、「物が売れなくなる」と〓(口ヘンに七)られたが、「環境のことなら中野に聞け」と言われるようになった。

 ▽手応え

 2005年の愛知万博(愛・地球博)で、NGO、NPOが出展するパビリオンとして注目を集めた「地球市民村」は、博報堂が事務局を担った。プレゼンテーションや準備、運営に当たっては、中野の知識や人脈が生き、持続可能性や市民参加をキーワードとする仕事がその後も広がった。

 もうけるだけでなく、社会的課題も仕事として取り組めると若い人に思ってもらえた。「ネクタイ菩薩」の活動に手応えを感じる。

 博報堂には30年在籍した。その後、大学教員に。参加者が輪になり対等に語り合うワークショップの専門家として、行政や教育、医療関係者の集まりの仕切り役も担ってきた。信条は「ゆっくり少しずつ丁寧に」。企業に代表されるスピード重視、上意下達とは対照的な文化の裾野を広げる。

 緑濃い鹿児島・屋久島に「人と人、人と自然、人と自分自身」をつなぎ直す場として06年、「本然庵(ほんねんあん)」を建てた。大学を定年になった今年、リフォームしたこの拠点に時々出向き、学びの仲間と共に過ごす。

(敬称略、文・西出勇志、写真・今里彰利、2023年10月7日出稿、年齢や肩書は出稿当時)

 

【木漏れ日の庭でくつろぐ中野民夫=鹿児島・屋久島】