長期連載‐国内

(28)すぐ逃げ帰ると思っていた 閉じた世界、夫からの自立

 1991年夏、大学生だった川村久恵(かわむら・ひさえ)(52)は、北海道平取町の二風谷を旅行で訪れ、初めてアイヌ民族の文化に直接触れた。アイヌの歴史に興味を持ち、翌年には東京で行われた伝統儀式「カムイノミ」に参加した。そこで出会ったのが旭川市にある川村カ子ト(かわむらかねと)アイヌ記念館の館長、川村兼一(かわむら・けんいち)だった。雰囲気があって見た目も格好よく「すごい人かも」と直感した。

 大学卒業と同時に東京から旭川に移り住み、翌年兼一と結婚した。アイヌや少数民族への関心はあったが、それ以上に兼一と歩む人生に胸を躍らせていた。

【26年前の家族写真と同じ場所で、川村久恵、愛、晴道。当時の思い出はない。後方は7月にオープンした記念館の新館、晴道は館長に就任した=北海道旭川市】

 ▽気難しい人

 ところが、一緒に暮らしてみると、20歳離れた夫は気難しい人だった。2人の子どもを出産し、長女と長男の子育てで手いっぱいになっていても、夫が育児に関わることはほとんどなかった。

 同じ敷地内にあるアイヌ記念館と自宅を行き来する毎日。記念館で任される仕事は受付や雑務ばかりで、積極的に手伝おうとすると、夫はよい顔をしなかった。

 指示されたことには全て従ったが、何かのきっかけで機嫌を損ねると、口をきいてもらえなくなった。「アイヌではない自分がここででしゃばるべきではない。別にアイヌのことを知らなくても生きていける」。気が付けば、いつも身を引くのが習い性になっていた。

 24時間顔を合わせる生活に息が詰まる。世界はどんどん閉じていった。実家に帰る選択肢が何度も頭をよぎった。

 結婚から10年目の2005年春、老朽化したアイヌの伝統家屋「チセ」が建て替えられることになった。ボランティアら約200人が参加し、久恵もその1人として加わった。しかし作業は予想以上に難航し、年内の完成は無理だろうとのムードが広がりつつあった。

 関係者が浮足立つ中、兼一はひとり黙々と作業を続けた。背丈ほどあるささやぶに何度も分け入り、鎌で刈って運び出す。諦めない姿を見て、久恵は「この人には尊敬できるところがある」と素直に思った。共にチセを造り上げたことで、夫への見方が変わった。

【かつてのアイヌ記念館の前で、夫の兼一、長女の愛と写真に納まる川村久恵。胸を躍らせ始まった結婚生活だった=1997年5月、北海道旭川市(友人で写真家の伊藤健次さん撮影)】

 ▽看板になれ

 翌06年、知人の元新聞記者の女性に厳しい言葉をかけられた。「あなたはすぐにここから逃げ帰ると思っていた。でもこの先もいるのなら記念館の看板になりなさい。子育てに逃げてはだめだ」

 周囲の人が自分のことをどう思っているかは、何となく想像がついていた。旭川のアイヌで最も有名な「川村兼一」の妻。そして和人(日本人)。でもその枠から自由になれないと決めつけ、閉じこもっていたのは自分の方だった。

 幸い子育てが一段落した時期だったので、アイヌ語を文法から学習してみることにした。

 日本語と違ってアイヌ語は曖昧さを嫌う合理的な言語だ。それは狩猟民族として対象物を正確に観察したかったためだろうか―。学び出すと楽しくなり、興味はアイヌの考え方にも広がった。勉強はその後も約10年間続け、市民対象の入門講座で教えるまでになった。

 夫にもまた、微妙な変化が起きていた。それまでは記念館に来た観光客に妻が解説をすると不機嫌になっていたのに、なぜか怒らなくなった。

 兼一は子ども相手に北海道の歴史を語るのが、あまり上手ではなかった。一方的に知識を伝えようとするので、聞かされる側は戸惑ってしまう。久恵は子どもの質問に応じながら、理解を深めてもらおうと努めた。すると「イベントの司会もおまえがやれ」と仕事を与えられるようになった。

 「もしかしたら、この人はずっとアイヌのことを学んでほしかったのではないか」。確信はなかったが、夫の真意に少し触れたような気がした。

【7月に新装オープンした記念館の館長に就任した川村晴道。新しいヌサ(祭壇)の前で抱負を語る=北海道旭川市】

 ▽大将

 夫から精神的に独立できると、自らの意思で誰にでも会いに行けるようになった。ユーモアがあって陽気なアイヌたちと話をしていると、アイヌのことが好きなんだと心から思えた。自分はアイヌにはなれないが、2人の子どもたちはアイヌの血を引いている。ルーツと向き合い、誇りを持って生きてほしかった。

 ようやく進むべき道が見えてきた21年、がんで闘病中だった兼一が亡くなった。晩年は記念館の運営よりも、伝統儀式やアイヌの先住権問題などに力を注いでいた。

 周りから「大将」として担がれると、断り切れない人だった。不器用なのでうまく立ち回れないが「アイヌのために」という信念は本物だった。

 病床の兼一から最期にかけられた言葉に久恵ははっとした。「大将」。声はか細かったが、言わんとすることは分かった。これからはおまえが大将なんだ、と。

 夫婦で交わした言葉は決して多くなかったが、遺言状には「息子とともに記念館を頼む」としたためてあった。

 今年7月に新装オープンした記念館の館長には、長男の晴道(はると)(24)が就任した。久恵は副館長として息子を支える。バトンは確かに受け取った。

(敬称略、文・名古谷隆彦、写真・藤井保政、2023年8月5日出稿、年齢や肩書は出稿当時)

【7月に新装オープンした川村カ子トアイヌ記念館(後方)前で写真に納まる川村久恵、愛、晴道。左は旧館=北海道旭川市】