長期連載‐国内

(27)きっと加害者になっていた 呪縛解け、つながり求める

 高校を卒業したばかりの中島坊童(なかじま・ぼうどう)(55)は埼玉県行田市の自宅で見ていたニュースにくぎ付けになった。ソファから立ち上がり、画面に近づく。1987年6月。「先生」と慕った男が手錠をかけられ、警察に連行される姿が映し出されていた。

 先生は私塾を開いており、少年たちが集団生活を送っていた。アナウンサーは「塾から逃亡した者を別の少年に捕まえさせ、塾長自身も暴行を加え殺害した」と容疑を説明していた。

 何かの間違いだと思い、駅で新聞を買いあさった。しかし、かつて不登校の自分を受け入れてくれた恩師の姿は、どこにも見当たらなかった。

【東京都内の公園で男性の話をじっくり聞く中島坊童。時折はさむ質問で、相談者の本音が漏れることも】

 ▽打ち勝て

 小学校にはほとんど通わなかった。友達も給食も大好きだったが、校舎に入ると、自分が望まない目的地に連れて行かれるようで怖かった。

 中学にも行かず、両親に連れられて精神科や児童相談所、カウンセラーを巡った。「異常はありません」という診断に納得できない両親は、新興宗教に相談したり、占いに通ったりもした。

 当時は不登校ではなく登校拒否と呼ばれ、地域には自分だけしかいなかった。近所の目を気にする親の気持ちも分かったが、「治療」という言葉で語られるのには抵抗があった。

 期待された〝効果〟が得られなかったため、両親とともに東京・浅草にあるマンションの一室を訪れた。そこは不登校やひきこもりの子どもを預かる塾だった。

 初めて出会った塾長は「なぜ学校に行かないのか」とは尋ねなかった。それまで散々問いただされたのに、「学校なんて行かなくていい」と一言。その言葉に救われた。

 生活のルールが一切ないのも快適だった。ある日、塾長から「君は何のために生まれてきたか分かるか」と聞かれ、困惑した。

 「勝つために生まれてきたんだ」。塾長は断言した。「勝つ」の意味は分からないまま、妙に納得する自分がいた。世の中の当たり前に打ち勝て、と言われた気がした。

 吃音(きつおん)に悩む少年を「おまえはそのままでいい」と一喝し、ホームレスに無言で千円札を差し出す塾長の姿は格好よかった。「一生ここにいたい」と思ったが、学校に戻る未来は遠ざかり、見かねた親は退塾を決めた。

 その後、両親が雇った家庭教師とウマが合い、勉強が楽しくなって高校に進学した。「学校にさえ行ってくれれば他には何も望まない」と漏らしていた両親は安堵(あんど)し、家の中に張り詰めていた緊張感は消えていった。

【20歳の頃の中島坊童。人とのつながりを求めるようにボランティア活動にいそしんだ=埼玉県内(提供写真)】

 ▽母の姿

 その塾長が逮捕された。記事の内容は、塾長から被害者へと次第に軸足を移していった。塾長のことばかり考えていた中島の目に留まったのは、亡くなった少年の母親の心情に迫った記事だった。息子を学校に通わせるため、最後のよりどころとして塾長にすがった末の絶望が描かれていた。

 不意に母の姿が重なった。思い返してみれば、近所の目を気にしながら息子を連れ回す表情は必死そのものだった。

 塾長への憧れは次第に恐怖へと変わっていった。当時、塾は埼玉県秩父市の山奥の一軒家に移転しており、やめた後も時々遊びに行っていた。

 中島の頭にこんな想像が浮かんだ。集団生活をする者たちが居間に集まり、1人の少年を囲む。「次、次」という塾長の声とともに金属バットが回ってくる。悲鳴は外の世界には届かない。

 「もしかしたら自分も加害者になっていたのではないか」。いや、間違いなく殺していた。それは確信に近い感覚だった。「洗脳」が解けると、塾長の言葉には深い意味などなかったように思えた。

 ▽脇役に徹する

 塾長に心酔した過去を省みて、事件の後はボランティア活動にいそしんだ。塾長以外の人間と関係をつくれなかったから、自分は何の疑いも持たなかったのではないか。人とのつながりを求めるように、不登校やひきこもりの支援に参加した。

 以来30年余り、東京・歌舞伎町を中心に、人の悩みや困り事に寄り添ってきた。

 もっぱら話を聞くことに集中し、説教はもちろん、助言もしない。人が本音を話すのは決まって時間がたってからだ。「こうしたい」という解決策は実は最初から持っている。活動を通じてそれが分かるようになった。

 脇役に徹するスタイルを確立できた最近、ふと塾長の言葉を思い出した。「悩んでいる人が自分で解決するチャンスを横取りしてはいけない」

 塾長の言葉には確かに真実も含まれていた。彼のことを全肯定も全否定もせず、自分なりに受け入れられるようになったのかもしれない。

 もう一度、会って尋ねてみたい。「なぜあんなことをしたのですか」と。今なら、その返答を自分なりに解釈できる気がする。いつの日か自分も私塾を開き、苦しんでいる人たちと向き合うために。

(敬称略、文・宮本寛、写真・今里彰利、2023年7月29日出稿、年齢や肩書は出稿当時)

【東京都内の公園でポーズをとる中島坊童】