長期連載‐国内

(22)贖罪の思い胸に反戦運動 米軍調査に協力の過去

 世界最大級のアオサンゴ群生地、沖縄県・石垣島の白保海岸の沖に、新石垣空港を建設させないよう反対運動に奔走していた山里節子(やまざと・せつこ)(85)は目を疑った。

 「軍事利用の危険性/白保海岸の空港建設」。1985年5月、沖縄タイムスに、こんな見出しの記事が載った。「白保海岸が軍事上の目的から、大型飛行場建設に適している」と50年代の米軍の調査報告書に記載されている。新石垣空港建設計画は、この報告書を下敷きにしているのではないかという内容だった。

 山里は驚愕(きょうがく)した。その調査に、自らが助手として参加していたからだ。

【陸上自衛隊駐屯地(奥)の近くを訪れた山里節子。「軍隊は住民を守らない、戦火に巻き込まれるだけ」自らの体験を語る=沖縄県石垣市】

 ▽米地質学者

 戦後、山里は八重山高校に通いながら米国民政府が設立した琉米文化会館で英会話を習った。米国の民主主義への期待と憧れがあった。55年5月、同会館の英語教師から「米国地質調査所の調査団が、助手を求めている」と声をかけられる。

 5人の女性が面接を受け、山里だけが採用された。女性地質学者ヘレン・フォスターが島内を回る時、付き添って手伝う仕事。2人は連日、露頭している石灰岩や花こう岩などさまざまな岩石の境界線をたどり、サンプルを採取した。調査結果を地図に書き込み、岩石の分布図を作成した。山里が18歳の頃だった。

 現地調査に1年半。東京・王子の米陸軍地図局に移り、さらに3年かけて報告書をまとめた。山里も地名の校正などのため、東京へ同行した。

 米軍は、ヘレンらの地質報告書を基に、軍事施設の適地についての提言を加えて軍事報告書として完成させたのだ。

 「私が協力した調査が軍事目的だったと知り、贖罪(しょくざい)意識を抱くようになった。今でもそれを首根っこに背負っている」と山里は言う。

【調査報告書を書き終えて帰国するヘレン・フォスターを羽田空港まで見送りに来た山里節子(提供写真)】

 ▽サンゴを守る

 山里はその後、米国の航空会社で客室乗務員として働くなどした後、76年暮れに帰郷。石垣島産の繭を使って絹織物を作る活動をしていたが、78年ごろから空港建設反対の運動を始める。白保へ移住。白保公民館の新空港阻止委員会の事務局員として国内外の支援団体との連絡業務を担当した。

 サンゴを研究している米海洋生物学者キャサリン・ミュージックと山里が、琉球大で出会ったことが運動を飛躍させた。

 キャサリンは83年3月、英字紙「ジャパンタイムズ」に記事を寄稿。「白保の海を埋め立てるのは、金の卵を産むガチョウの首を絞めるのと同じだ」と、空港建設の理不尽さを訴えた。さらに、世界自然保護基金(WWF)や国際自然保護連合(IUCN)と連絡を取り、約20カ国の首相らに白保の保全を訴えた。

 調査報告書のことを知ったのが85年。ためらいを覚えながらも運動に突き進んだ。88年2月、山里とキャサリンらは、コスタリカで開かれたIUCNの総会に出席。日本政府に空港建設計画の見直しを求める決議が採択された。

 国際的な世論が高まる中、沖縄県は89年、新空港の白保海上案を撤回。代替案である白保北方のカラ岳東側海上案も92年、断念した。

 「白保の運動は環境問題が前面に出たが、空港建設の背後にある軍事的な面にも目を向けるべきだと、私は訴えてきた」

【白保の海岸を訪れた山里節子。キャサリン・ミュージックと初めて会ったのもこの近くだ=沖縄県石垣市】

 ▽過酷な戦争体験

 石垣島の中央部。於茂登(おもと)岳の南麓に3月、陸上自衛隊の駐屯地が新たに開設された。

 山里は現在、「いのちと暮らしを守るオバーたちの会」の代表。平均年齢約70歳の女性15人の会員は毎週日曜日の夕方、島の各地の交差点で1時間のスタンディングを続けている。「島を戦場にさせない」などと書かれた横断幕やプラカードを掲げ、通行人や車を運転する人に訴える行動だ。

 「有事には住民を守ると言うが、島が軍事要塞(ようさい)化すれば攻撃目標となり、住民は戦火に巻き込まれる」。こう語る背景には、太平洋戦争中の過酷な体験がある。

 45年3月下旬、沖縄戦が始まると、石垣島は連日、米英軍機の猛爆撃にさらされるようになった。山里の一家6人は危険な市街地を離れ、山中に建てた小屋で生活。次々とマラリアに感染し、母親は5月17日に亡くなる。

 旧日本陸軍は6月1日、「住民は軍指定地に避難せよ」と命令。山里らは、於茂登岳西側の指定地に移動した。「竹床の長屋に10世帯がゴボウのように詰め込まれた。みんなマラリアの高熱にうかされ、阿鼻(あび)叫喚のありさまでした」

 石垣島や波照間島など八重山諸島の住民は軍命でマラリアの巣窟の山間に強制移住させられ、人口約3万1千人のうち3647人が死亡した。「軍隊は住民を守らない。私は身をもって知った」

 山里は、次の日曜日にも複雑な思いを胸に、仲間と街角に立ち、反戦を訴える。「米軍の報告書に協力した私は、堂々と運動をやる資格などないと自分に言い聞かせている。でも、戦争につながる自衛隊駐屯地は撤去させなければならないという強い思いで、運動を続けていきます」

(敬称略、文・藤原聡、写真・堀誠、2023年6月17日出稿、年齢や肩書は出稿当時)