長期連載‐国内

(20)可能性なんてなかった 芸大を出て現代美術家に

 京阪神の人の間では、その地名は独特のニュアンスを持って口に上る。兵庫県尼崎市。「あま」と呼ばれることもある。いろんな地区があって、今は様変わりしているのに、貧しい家が多くて柄が悪いというイメージが濃い。ダウンタウンの松本人志と浜田雅功が生まれ育った町でもある。

 現代美術家の松田修(まつだ・おさむ)(44)は1979年、同市のかんなみ新地という古くからある風俗街近くで生まれた。尼崎の中でも最もディープなエリア。松田はその貧困地域をあえて〝スラム〟と呼ぶ。

            

【生まれ育った「あま」の、シャッター商店街となっている三和市場を案内する松田修=兵庫県尼崎市】

 ▽諦め
 父親は「一度も働いたことがない」というのが自慢の遊び人。小さなスナックを経営する母親が家計を支えた。家は貧しく、兄弟3人で薄切りハムを1枚ずつ分け合う日も。だが周りはそんな家ばかりだったから、気にはならなかった。

 小学生の頃、自転車で探検に出た。行き先は芦屋市。言うまでもなく尼崎と対極にある高級住宅街だ。大きなお屋敷が並び、小型犬を抱っこして散歩している人や、上品な着物姿を見た。

 「なんやねんこれは」。感じたのは「巨大な劣等感」だった。自分がこの先どう頑張っても、一生覆ることのないであろう、今で言うなら貧困の連鎖。その理不尽な差に怒りを覚えた。そして、何かを諦めた。

 勉強も運動も、する意味があるとは思えない。不良ではなかったが、教師に「ニヒルな子」と言われるくらいさめていた。「現実的というか、夢を諦めるのが早かったんでしょうね」

 自分の未来が明るいものになるような気はまったくしなかった。だが「ここからはい上がってやる」というような根性物語にもならない。社会の矛盾になど気付かず、ただ現状を甘受する人々。そんな町にどっぷりと漬かって成長した。

 暴力が横行し、大人が子どもから金をゆするような場所では「普通の倫理観は育たない」と松田は振り返る。中学の時には2度、鑑別所に入った。

【尼崎を案内する松田修】

  

【高校時代の松田修。未来の可能性など信じていなかった(提供写真)】

 ▽東京へ
 高校からは家を出て、アルバイトで学費と生活費を稼いだ。未来の可能性などこれっぽちも信じていなかった。なにより選択肢がなかった。うんと頑張って売れっ子ホストになるか、バーテンダーになるか。そんなことをぼんやり考えていた。

 厳しい現実を自虐的に笑って生き延びている人々への愛着はあった。それはそれで楽しそうだ。夢はないまでも、自分もそこそこ楽しめればいいか、と。だがそんな停滞感や、町につきまとう貧困や暴力への嫌悪感は募る。「嫌で嫌で仕方なかった」。4年かけて高校を卒業した後、友人に誘われて東京に出た。

 その後、東京芸術大絵画科油画専攻に進学、という経歴を聞くと誰もが驚く。「大学?」「芸術?」という地元の人々は、驚くどころか不審がる。一念発起して、という感じではない。「映画監督になりたい」と気まぐれで口にしたら、友人から「それなら美大だ」と勧められてその気になったまでだ。学費の安い難関の国立に行くしかない。長距離トラックに乗って予備校代を稼ぎ、浪人を重ねて2003年、ようやく合格した。

 「それからの話は、不良の更生物語でも貧乏人の成功物語でもないんです」。松田がそう言うのは、その後も「尼崎的なるもの」を手放さなかったからだ。「あま」のエッセンスを美術に持ち込むことは、エスタブリッシュメントによって形成されてきた美術の歴史に、いわば「スラム芸術」のページを書き加えることだ、と。

 ▽奴隷の椅子
 2年生になる頃から油絵を離れ、ビデオ作品を作るようになった。後のパフォーマンス作品もそうだが、表現は激烈だ。時に汚く、時に性的で、時には死を扱う。しかもそれを笑いのめす。

 「フィクションではなく、僕が育った頃の尼崎ではそれが現実。浄化されていく社会の中で、ネガティブなものは見えにくくなっているけれど、それを透明なものにせずに提示したい」。時代の現実を残す役割も、芸術にはあると思う。

 20年、「奴隷の椅子」というインスタレーション作品を作った。「おかん」がモデルのCGが、その半生を語る。

 高校を出てすぐにホステスとして働き始め、やがて小さなスナックを持ち、3人の男の子を育て、コロナで店を閉めた。映像の前に置かれたソファは、そこで長年使われた椅子だ。自分の人生を自分で選べなかった人の語りを聞く者は、確かに貧困や、それによって奪われる自由に思いをはせる。松田の自信作だ。

【松田修展「なんぼのもんじゃい」=東京都墨田区】

【地元尼崎の商店街を歩く松田修】

 何度も誘ったが、おかんはそれを見ていない。息子が東京で芸術という名の詐欺を働いていると思っている。その疑いを晴らそうと「尼人(あまじん)」という本を書いた。尼崎への愛憎を通して今の日本社会が持つ問題を暗示し、それを解決するために芸術ができることを訴えたつもりだ。

 おかんは分かってくれるだろうか。

(敬称略、文・岩川洋成、写真・今里彰利、2023年6月3日出稿、年齢や肩書は出稿当時)