長期連載‐国内

(16)あなたのことが怖かった 重い告白、異変の始まり

※この連載は5月17日に岩波書店から『迷いのない人生なんて』として刊行予定です

 目の前で土下座する後輩は、小刻みに体を震わせていた。「すみません。すみません」。任せていた支店の仕事を放り出し、遊び歩いていたことを認めた。レジからは売上金もなくなっていた。

 カレー店の店主荻野善弘(おぎの・よしひろ)(44)は、とがめるよりも「なぜ気付いてやれなかったのか」と悔やんだ。仕事がうまくいかないのなら、どうして相談してくれなかったのか。

 「あなたのことが怖かった」。後輩は小さな声を振り絞った。弟のようにかわいがってきた相手から突き付けられた言葉は、あまりに重かった。

 2012年秋。体調の異変は直後に始まった。

 ▽表現者
 兵庫県丹波市に生まれた荻野は、高校時代からスケートボードにのめり込んだ。週末になると、大阪に出向いてはスケボー仲間と技を競い合った。

     

【スケートボードにのめり込んでいた荻野善弘。2012年春、まだ支店長だった後輩と大阪のスケートパークに滑りに行った(提供写真)】

 23歳の時、大阪のスケボーショップの近くにあるカレー店に立ち寄り、その料理に衝撃を受けた。「これまで食べたことのない難解な味だ」。それぞれの具材が混然となって、直径30センチのプレート上で自己主張していた。

 「自分もこの小さな空間の表現者になりたい」。強い感情が湧き上がり、その場で「将来はカレー店を開く」と決めた。

 6年間の修業を経て08年、大阪・北浜に「コロンビア8」をオープンさせた。地元のグルメ雑誌に取り上げられると、スパイスカレーの聖地として一躍人気店に。新店舗を開くため店長に指名したのが、スケボー仲間の10歳年下の後輩だった。

 腕一本で道を切り開いてきた先輩に憧れ、後輩は「ぜひ自分にやらせてほしい」と申し出た。その意欲に荻野は賭けた。

 ▽1人1笑
 関西人の荻野にとって、店はお客さんを楽しませるステージだ。カレーを褒められるだけでは満足できない。初めての客には流れるようなリズムで食べ方を講釈する。

 「右手にスプーン、左手にシシトウを持って食べるのがうちのカレー。大阪では常識ですよ」。接客を重ねる中でたどり着いた決めぜりふだ。

 「そんなの聞いたことないです」。戸惑う客の反応に「みんな知ってて黙ってますからね。どや顔で人に教えたらだめですよ」と返す。「でもカレーは本当においしい」「おいしいのは知ってます」。軽妙なトークに客も引き込まれていく。

 「店長はファンタジスタでなければ」と自分に言い聞かせ、来客中一度は笑ってもらう「1人1笑」をモットーにしてきた。後輩もその後ろ姿を追い、表面上は先輩のまねをしてみたが、一朝一夕に身につくような技量ではなかった。荻野も気付いていながら、手を差し伸べてやれなかった。

   

【大阪・北浜の「コロンビア8」本店で、定番のキーマカレーをにこやかに差し出す荻野善弘。常連客には「オギミール」の愛称で親しまれている。多彩なスパイスが効いた味が口の中に広がるのが魅力。病みつきになり何度も通ってくる客が多い】

 「怖かった」という言葉が全てを物語っていた。「自分がうまくできたからといって、人も同じようにできると考えているなら、あなたは傲慢(ごうまん)だ」。伝えたかった意図はそういうことだろう。

 後輩は店を去った。スケボー仲間の間では「荻野が一方的に解雇した」とのうわさが広まり、店にやって来なくなった。

 一度に大切なものを失った荻野は円形脱毛症になった。声もかすれ始めた。病院に行くと、声帯萎縮症と診断され「ストレスが原因だろうが、治療の方法はない。いずれ全く声が出なくなる可能性もある」と言われた。

 大切にしてきた客とのセッションから、即興のリズムが失われてしまった。以前の倍以上息を吸い込まないと、同じように声が出せない。息継ぎの回数は増え、気管支につばが入ってせき込むたびに、苦しくてカウンターの下にしゃがみ込んだ。

 ▽弱さを認める
 発症から10年後の22年、知人でオーストラリア先住民族の楽器「ディジュリドゥ」奏者のGOMA(50)に偶然再会した。

 15年ぶりに話し込むと「最近は絵を描いている」と知らされ、荻野は不思議に思った。事故で頭を強打し、後遺症で後天性サバン症候群になったのだという。脳に衝撃を受けた後、特定の分野で突出した能力を発揮する非常に珍しい病気だが、同時に昔の記憶を失う障害にも悩まされていた。

 「音楽以外に絵の才能まで手に入れて幸せな人だ」と誤解を受けてきたGOMAと「自分の苦悩は人に話しても仕方がない」と思い詰めてきた荻野。2人とも見た目には異変が分からず、周囲の無理解に苦しんでいた。

 「これまですごくしんどかったでしょう」。荻野がGOMAの心情を推し量ると、「そんな風に言ってくれる人はいなかった。優しい言葉をありがとう」とGOMAも荻野の症状を気遣った。

 昔の自分ならGOMAの傷みに気付くことはなかっただろう。病気になるまで店の運営は順風満帆で、荻野には怖いものがなかった。他人に弱さを見せるような生き方とは無縁だと思っていた。

【心斎橋パルコ地下の飲食店街でGOMA(右)とDJを勤める荻野善弘。大型モニターに彼の作品が浮かんだ】

【GOMA(左)とDJを勤める荻野善弘】

 症状が改善する兆しは見えてこない。これ以上悪化したら、マイクを使ってしゃべるしかないかと考えることもある。ただ、そんなステージも悪くないなと今は思える。

(敬称略、文・名古谷隆彦、写真・京極恒太、2023年4月29日出稿、年齢や肩書は出稿当時)