長期連載‐国内

(14)母の病「神なんていない」 信仰捨て、取り戻した人生

 心を病んだ母は、自死の瀬戸際まで追い詰められていた。「どうして一生懸命信仰しているのに病気になるの。どうしてエホバはお母さんを助けてくれないの」。坂根真実(さかね・まみ)(46)が泣きながら口にしたのは、家族が長年信じてきた宗教の「神」の名だった。12年前のことだ。

 「エホバの証人」の宗教2世の坂根は当時、信心を失いかけていた。母は信仰を続けていたが、身近な人が亡くなり、精神のバランスを崩した。「家族」のように親しくしてきたはずの信者仲間は母の異変に気付かず、病状は悪化していった。

 人生で感じたことのない激しい怒りがわき上がってきた。「神なんていない。教団と縁を切り、私がお母さんを助ける」。入院中の母が退院できたのは、しばらくたってからだった。

 

教団の本を手にする1歳ごろの坂根真実(提供写真)

 【母親に抱かれた坂根真実(提供写真)

 ▽大きな家族
 生まれた直後から週3回、家族で教団の集会に参加した。当時通っていた東京都内の集会所には100人ほどの信者がいた。「ハルマゲドン(最終戦争)で信者だけが生き残り楽園で暮らす」「信者以外はサタンの手先」と説く教義を学んだ。

 誕生日やクリスマスなどのイベントは祝ってはならず、男女交際も制限された。「あれもダメ、これもダメと自由がない。考えさせないためだった」。規律を破り、むちで打たれたこともある。

 母は信仰にのめり込み、坂根が7歳の時に両親は別居した。

 それでも、坂根にとって集会所の仲間は「大きな家族」のような存在だった。大人たちに見守られ、同じ年頃の子たちと兄弟のように遊んだ。11歳で洗礼を受けて正式な信者になった。高校卒業後は、母を喜ばせたくて布教活動に力を注いだ。母と教団の関係者が、世界の全てだった。

 ▽人間になれた
 21歳で10歳上の男性信者と結婚したが、暴力に耐えられず4年で離婚した。29歳の時に別の信者と再婚。今度こそ幸せになるはずだった。

 だが教団は原則として再婚を認めておらず、夫婦は除名処分に。処分を受ければ「サタン側に落ちた」とみなされ、信者は交流を禁止される。母にも友人にも会えない生活に、坂根は追い詰められていく。追い打ちを掛けるように夫の暴力も始まった。やせ細り、重度のアトピー性皮膚炎を発症した坂根は、病院に運び込まれた。

 「身体的にも極限だったが、精神的な葛藤も相当ありそうだ」。当時診察した医師の上出良一(かみで・りょういち)(74)はそう察し、坂根に声をかけた。「何事も突き詰めずほどほどに。『中庸』でいいんだよ」

 教義以外の考えは全て悪という「白か黒か」の価値観で生きてきた坂根には、頭を殴られたような衝撃だった。穏やかな上出の語り口にも心を溶かされ、回復に向かった。

 31歳で2度目の離婚が成立。その後母が倒れたことで、わずかに残っていた信仰心や組織への執着は断ち切った。2011年2月、34歳だった。

 語学学校に通い、禁止されていた選挙では初の1票も投じた。「卵からかえったばかりのひなのよう。全てが刺激的で幸せそうな人たちと接して健康エキスを取り入れた」

 教義に縛られず、何もかも自分で決める生活。「自分で考え動いている。私は生きている」。人間になれた、と感じた。

 

【仕上がりに笑みがこぼれる坂根真実。取材のために自ら懇意のメークさんにお願いしてセットしてもらった=東京都内】

 ▽魚の捕り方
 教団への信仰心をまだ失っていないころ、坂根は東京・表参道のビルに母とよく通った。

 母は、教団とは別に児童虐待やドメスティックバイオレンス(DV)被害者の支援団体で活動していた。「魚は捕ってあげないけど、捕る方法を教える」と宣言し、広報担当に坂根を据えて文章の書き方をたたき込んだ。研修会やシンポジウム、関係者との会議。活動に使ったこのビルで、師弟関係になった母子は長い時間を過ごした。

 母も複雑な家庭環境に苦しみ、宗教を頼っていた。娘のDV被害に憤り、二度と同じ経験をさせまいと奔走した。「虐待やDVをなくすことには、彼女なりの正義があった」。坂根は信念を貫こうとする姿を尊敬したが、宗教から母が離れることはなかった。

 母に認められたいと願い、母の言葉を支えに生きてきた。「希望を捨てないで」「真実ちゃんには、本人もまだ気付いていない大きな潜在能力がある」。2度目の離婚の際にもらったポストカードのメッセージを、苦しい時に何度も読み返した。

 教団から離れた娘を許せない母は、今も戒律を守り交流を拒否している。「私がエホバにいるという『条件付きの愛』だった」。絶望と喪失感。「自慢の娘になりたかった」と涙を流し、親子関係を断ってまで宗教に依存する母の弱さを思った。

 都内の公益財団法人で働く坂根は、これまで何度か母に手紙を書いてきた。離れていた時間を埋めるのは容易ではない。ただいつかまた、食事をしたり本音を言い合ったりできるようになりたい。互いがどんな信仰を持っていても。

(敬称略、文・兼次亜衣子、写真・今里彰利、2023年4月8日出稿、年齢や肩書は出稿当時)