長期連載‐国内

(13)深い孤独と性自認の揺れ 薬物に痛みをゆだねて

 薬物に手を出す者は意志の弱い愚か者だろうか。いや、人はどうしようもない「痛み」を癒やすために、声にならない声を表現しようとするのだと今、倉田(くらた)めばは考える。

【対談で自身の経験を語る倉田めば。自分の心と向き合って紡がれる言葉が、聴衆に深い気付きを与える=東京都内】

 とびきりの優等生だった。北海道の国立大付属中で1番の成績。2年生で5番に落ちたとき、肩の荷が下りた。親や教師の期待に応えていい子でいることの重圧は、限界にきていた。「これで不良になれる」。そう思って手を出したのが、極端なことに接着剤だった。

 自宅のトイレで吸ってみた。体がジーンと熱くなって、目の前が黄色っぽくなり、周りの風景が遠ざかる。幻覚は見なかったが、それよりも「やっちゃいけないことをやったことがなかったから、それがうれしかった」。

 父の転勤で移り住んだ京都府舞鶴市の高校では友だちが一人もできず、寂しさを紛らわすためにシンナーを吸った。夢を見るような幻覚を繰り返し味わい、やがて遊びの域を超えた。高校を卒業後に家出をし、移り住んだ先の東京では独り暮らし。制止するものは何もなかった。

 ▽二つに引き裂かれ
 薬物に限らず、依存症は「自己治療」だと言われる。広い意味での「傷」を、自分で癒やすために、依存性のある物質や行為、関係にふける。倉田の場合その傷は深い孤独と、自分の性に対するアイデンティティーの揺れだった。

 5歳くらいのとき、音楽教室の発表会で、女の子たちがかわいい洋服に身を包んでいるのを「自分はなぜ半ズボンをはいてるんだろう」と思って見ていた。「勉強も運動もできる男の子と、女の子っぽい感覚、その二つに引き裂かれていた」。その揺らぎは、ずっと先まで続くことになる。

 東京の写真専門学校に進んだ後は、シンナーの乱用はますますひどくなった。あまりのひどさにルームシェアをしていた友人が母親に連絡をし、22歳で初めて精神科病院に入院する。2カ月たって退院するころには「これでやめよう」と強く思った。だがだめだった。

 ▽幻覚に手を合わせ
 激しい自己嫌悪に襲われ、そのことがさらに追い打ちをかける。18歳のころから始まったリストカット、睡眠薬や鎮痛剤の過剰摂取も加わり、4度の入退院を繰り返す20代だった。「自分を肯定することは何一つなかった」。最後のトルエンを吸ったときのことをはっきり覚えている。27歳だった。幻覚に出てきた神様に、ごめんなさいと手を合わせながら泣いた。

 4度目の入院のとき、アルコール依存症の回復施設と自助グループに通うように勧められた。当時はまだ薬物依存専門の施設はなかった。そこで倉田は「薬をやったことに責任を感じなくていい」と言われた。「薬をやるのは自由だ。ただ今日1日だけやめてみよう」とも言われた。その1日が1年になり10年になり、もう39年も薬物から離れている。「毎日顔を合わせる仲間がいたことで、薬をやめた後の空虚感を埋められた」。フリーのカメラマンをしながら、今度は覚醒剤で逮捕された人や入院患者に会いに行く活動も始めた。

 1993年、薬物依存者のためのリハビリテーション施設「大阪ダルク」を立ち上げた。ダルクの創設者、近藤恒夫(こんどう・つねお)(故人)から声をかけられていたが、自分には向かないと断り続けていた。だが、視察に行ったイタリアで、施設の神父が「社会が薬物に向かわせた若者を、また社会に戻すのは社会の責任だ」と言ったことに衝撃を受ける。「それに比べて何一つ差し伸べる手がない日本は、なんてひどい国なんだ」

   

【ダルク創設者の近藤恒夫(左)と倉田めば=1986年、東京都内(他の人物の顔を画像加工しています、提供写真)】

 ▽言葉を持つこと
 性自認はゆれ続けた。出生時に割り当てられた性別と、自身の持つジェンダーが一致していない性別不和。40歳を過ぎて女性の格好をするようになり、女性ホルモンを注射している。かつての薬物依存と、自身のセクシャリティーの関係について、今も考え続ける。

 依存症は病気だという認識は今日、ようやく社会に共有されつつある。だがそこから「回復する」という言い方に違和感があると倉田は言う。

 「もともと生きづらさがあって薬をやっていたのだから、やめても元に戻るわけにはいかない。ダルクをはじめ私たちのコミュニティーは、薬をやめて手に入れた新しい生き方を享受する一つの文化の場なんです。誰かに与えられた回復というゴールを目指して生きているわけじゃない」

 50代の半ば頃、若いときに手がけていた詩作を再開した。パフォーマンスアートも始めた。表現を手にしたことは、生き方に大きな影響を与えたと思う。「依存者は薬が切れた後、何十年もその後を生きる。そのとき、自分の〝回復〟とはこういうものだと語る、自分だけの言葉を持っていることはとても大切です」

【対談相手の話を聞く倉田めば=東京都内】

【対談で笑顔の倉田めば=東京都内】

 薬をやめられてよかったね、というような単純な話ではない。倉田の考えていることは、依存症という病を抱えた人々が、新しい人生を幸せに生きることの意味である。

(敬称略、文・岩川洋成、写真・今里彰利、2023年4月1日出稿、年齢や肩書は出稿当時)