長期連載‐国内

(12)苦悩抱きしめ、共に歩む 作業所で「幸せ広がって」

【焙煎機でローストされたばかりのコーヒー豆の熱を冷まし、より分ける八尾敬子。香ばしい匂いがし、メンバーとコーヒー談議に話が弾む。後ろでは、ひいた豆をドリップバッグにする作業が続く=兵庫県宝塚市の珈琲焙煎工房Hug】

 ピンク色の壁に赤いひさしと白い扉。かわいらしい外観の建物が兵庫県宝塚市の住宅街の一角にある。高次脳機能障害者のための作業所「珈琲焙煎(ばいせん)工房Hug(ハグ)」。ドアを開けると、いりたてのコーヒー豆の香ばしい匂いが漂う。

 事故や病気で脳が損傷を受け、認知機能や記憶に影響が出る高次脳機能障害。物覚えが悪い、集中できない、怒りっぽい、言葉が出てこない、こだわりが強いなど症状は人によってさまざまだ。

 施設長の八尾敬子(やお・けいこ)(55)とスタッフ、通所者の計7~8人で豆の選別、焙煎や袋詰めをする。雑談をしながら手を動かす人、ゆったりとした動作を繰り返す人。それぞれのペースで作業は進む。

 「アクセサリー製作やパン、菓子作りも考えたけど、通所する男性たちの反応がいまひとつ。コーヒーならなじみがあり、やってみたいとなって」と八尾が振り返った。

 ▽反発
 2014年に開設したハグは障害者総合支援法に基づく就労継続支援施設。八尾の次女宙波(そらは)(20)が高次脳機能障害になったことが出発点だ。

 宙波は小学1年のとき交通事故に遭い、約15メートル飛ばされて全身を強打。意識回復まで1カ月かかった。右目が見えにくい、階段の上り下りが困難といった障害が残った。

               

【交通事故後、入院していた病院で次女宙波に寄り添う八尾敬子。意識が回復するまで1カ月かかった=2009年12月(提供写真)】

 通学再開後は集中力が続かず、授業に付いていけない。友達と遊ぶ約束をしたのを忘れるなど記憶に支障も。高学年になると授業が難しくなり、覚える量も膨らむ。帰宅後、疲れてぐったり横になることが増えた。

 「宿題は?」。八尾が尋ねてやらせようとすると宙波は反発する。「ずっとこのままでいいのか」「最低限の勉強はさせないと」と八尾は思い詰めていた。「でも娘はそういう〝圧〟に敏感だった」。日々、同じような光景が繰り返され、互いにいらだちを募らせた。

 そんなとき宙波が通うプレイセラピー(遊戯療法)の担当者から「無理にやらせなくていいのでは」「何も言わない方がいい」と助言を受けた。割り切れない思いを抱きつつも、働きかけを控えていった。宙波が家で過ごす時間はもっぱら休息に充てられるようになった。

 「後から見れば、これが良かった」と八尾は語る。なぜ自分は他の子のようにできないのか、といちばん悩んでいたのは宙波本人。八尾自身がさらに娘を追い詰める形になっていた。

 ▽働ける場所
 ハグを始めたのは宙波が小学6年のときだ。関連の講演会などに参加する中で、家族が高次脳機能障害になった人たちとつながりが生まれた。「働く意欲はあるけれど、仕事を始めるとうまくいかない」「仕事をしていないことで劣等感や不安を抱いている」といった悩みを数多く聞いた。

 「安心して働ける所があれば、居場所になるだけでなく、社会の中で役割を果たしていると感じられるようになる」と考えた。いずれは宙波がそこで働けるかも、との思いもあった。

 コーヒー豆に関する知識もあまりないところから手探りで始めたハグだが、丁寧な選別や自家焙煎が特徴の商品は次第に販路が広がる。売り上げは当初の倍以上に。通所者に渡す報酬を徐々に引き上げることができた。

 宙波が中学に入ると、前日の疲れから朝起きられず登校できない日が増えたが、昼食の用意など必要な世話をしてハグに向かった。それが母娘の間で「ほどよい距離」を取れる要因にもなったと思っている。

 宙波は通信制高校に進学。登校して校舎で授業を受けることもでき、自分のペースで学べる。無理をして周囲に合わせる必要がなくなり、次第に精神的に安定していった。

【近くの園芸店まで散歩に出るメンバーと八尾敬子=兵庫県宝塚市

 ▽水鳥のように
 ハグ開設時からのスタッフ萩原(はぎわら)ゆう子(58)は八尾を「水鳥のような人」と評する。「いろいろ大変だろうけど周りにそう感じさせない。でも見えないところで、すごい勢いで足を動かしてる」

 八尾は「私はできることをしてきただけ」と静かに語る。娘のけがや施設の運営は「全く想像していなかった」。「でも、おかげでこんな楽しいことに」と作業場内で手を広げてほほえんだ。

 冬のある日、作業の合間に通所者らと近くの公園に散歩に出かけた。焙煎したばかりの豆でいれてポットで持参したコーヒーが振る舞われ、緩やかな時間が流れていく。

 「この障害になって、それまで知らなかった世界に触れられたとか、いろんな人に出会えたとか、少しでも前向きな気持ちになってもらえたら」と八尾。実際、暗い表情の通所者が次第に変化する様子を目にしてきた。

 「小さな幸せ探し」が大切とも。コーヒーがおいしい、お客さんが喜んでくれた...。「その幸せが伝染したら世の中が良くなる」。つらいことも「抱きしめる」。作業所の名称ハグに込めた思いだ。

(敬称略、文・福島聡、写真・京極恒太、2023年3月25日出稿、年齢や肩書は出稿当時)