長期連載‐国内

(11)反発と執着、引き合う心 「世界旅しろ」の言葉胸に

 風花が舞う冬木立の奥に月山(1984メートル)がそびえる。山形県の霊峰に、長崎市生まれの伊東優(いとう・ゆう)(36)は、ひと目見て心を打たれた。2016年冬、移住体験で山麓の西川町大井沢を訪れた。この地に羅針盤のようにいざなってくれたのは、皮肉にも家庭を捨てた父だった。

【山あいの西川町大井沢の集落に向かう道に立つ伊東優。信仰の山、月山(上中央)が見える光景は、かつて自転車で放浪したシルクロードの途上、キルギスで出会った風景に似ていた。「月山を見てここに住もうと、直感的に思ったんです」という】

 ▽沈黙
 伊東が小学6年生の時、一家は長崎市から雲仙・普賢岳のふもとに引っ越した。父が著名な建築家に設計を依頼した家。敷地の林は父が自らチェーンソーで切り倒した。伊東も何度も連れられてその手伝いをした。「一から土地を切り開き、自分の居場所を求める姿に刺激を受けた」

 父は長崎市で経営する塾をやめ、新居のそばに自分で設計したカフェを始めた。陽光に木の葉がきらめき、せせらぎが聞こえる。しかし、カフェの客足は伸びず、建築費用を含む借金は抜き差しならなくなった。伊東は母、2人の弟と長崎市の祖母の家に身を寄せた。

 母はパートの仕事で苦しい家計を支えた。参考書を買いたくても、母に言うのは気が引けた。金銭的援助を全くしてくれない父に、もやもやした感情が募る。そうした状況の中でも伊東は東京大に合格し、経済的な理由で学費は免除された。

 上京する前に、1人で暮らす父と会った。合格を伝えても、ほめ言葉は一切なかった。逆に「休学して世界を旅したらどうだ」と水を向けてきた。ジャーナリストのように、見知らぬ世界に飛び込むのが夢だった伊東は、自分の心を見透かされているように感じた。2人の間に沈黙が漂った。

 なぜだか、むきになって言い返した。「だったら金くれよ」

 ▽放浪
 父はその後、借金で逃げるように理想の家を手放した。伊東は大学で建築と都市について学び、とりわけ道に興味があった。卒業論文は東海道の歴史がテーマで、次第にシルクロードに憧れる。「悠久の歴史と、多様な民族、文化、風土を育んでいる」と実際に訪れたくなった。

 大学院時代にオランダの設計事務所で半年間修業した帰り、自転車でシルクロードを横断することにした。仲の良い祖母から生前「世界の美しい所に骨を埋めて」と頼まれたのも背中を押した。オランダから中国・上海まで1年以上かけ約1万7千キロ。野宿や民家に泊まる貧乏旅だった。

【シルクロードを辿り、中央アジア・キルギスの道を走る伊東優。途中で知り合い、2カ月ほど一緒に自転車で旅したベルギー人が写した1枚 (提供写真)】

【中国で出会ったチベット仏教の僧侶たち。右から2人目が伊東優=2012年6月(提供写真)】

 帰国後、東京の建築設計事務所に就職した。その頃、大学の恩師で画家の木下晋(きのした・すすむ)が描いた湯殿山注連寺(山形県鶴岡市)の天井画を見に行った。作家の森敦(もり・あつし)が「月山」を執筆した場所と知り、その本を読んだ。幽玄な世界観に魅了された。

 「月山、湯殿山、羽黒山の出羽三山が祖母の遺骨を埋めたキルギスの山々と似ていた」。どちらも深い渓谷を分け入ると温泉があった。

 建築設計事務所を辞め、1級建築士として独立。東京と山形で住まいと仕事を探し始めた。

 ▽家族写真
 父との微妙な関係は仕事で独立してからも変わらなかった。父は母と離婚し、沖縄で生活保護を受けていた。15年、いとこから居場所を聞き、那覇市の居酒屋で父と杯を重ねたことがある。「貧乏だったけど、それが人生のバネになった」。やりとりの中でつい口にすると、父は怒って席を立ってしまった。プライドを傷つけたかもしれないと思った。

 建築設計の仕事が軌道に乗り始めた頃、父を手助けしたい気持ちが芽生えた。電話すると、父は「おまえは30歳にもなって、建築家として名前が売れていない。俺に電話する暇があったら仕事しろ」とまくしたてた。伊東は「あんたに言われたくない」と心の中でつぶやいたが、父の言う通りだとも思った。

 「世界を旅しろ」という父の教えの通りに歩んだつもりはない。気がつけばシルクロードを走り、その道の先に月山があった。磁石の同じ極のように決して合わさらないが、自分がこれだと思って執着するところは異常なまでに似ている。

 伊東は結婚し、子ども2人を授かった。月山が眺望できる西川町大井沢の古民家を譲り受け、移り住むことになった。町の公共施設の設計も手がけるようになった。

 しかし、不安も頭をかすめる。父は結局、家族を捨てる選択をした。「父と似ている自分が幸せな家庭をつくれるのか」とためらう時もある。

 父は3年前、那覇市の病院で息を引き取った。享年62歳。病死だった。

 理想とした家を手放し、沖縄に行った父。伊東は「世界を旅しろ」の言葉は、父自身の願望の投影だと感じる。「自分の夢や理想を私に託したのかもしれない。思い通りにならない焦燥感から放たれた言葉」と推し量る。

    

【山に囲まれた西川町の河原。奥は月山】

 父のアパートで遺品を整理すると、雲仙・普賢岳の家で撮影した家族写真が見つかった。伊東は父の遺骨を東京の自宅に置き、墓には入れていない。その存在を、まだ消化できずにいる。

(敬称略、文・志田勉、写真・京極恒太、2023年3月18日出稿、年齢や肩書は出稿当時)