長期連載‐国内

(10)遺族に悼まれ死者になる 招かれざる客、返還の旅路

 1976年秋、北海道幌加内町(ほろかないちょう)の朱鞠内湖(しゅまりないこ)に遊びに行った浄土真宗の僧侶殿平善彦(とのひら・よしひこ)(77)は、近くにある光顕寺(こうけんじ)の関係者に呼び止められた。引き取り手のない位牌(いはい)があるという。寺を訪ねると、段ボール箱に約80基の位牌が保管されており、日本人と韓国・朝鮮人の名前が書かれていた。

 10~40代の男性ばかりで死亡時期は35~45年。殿平は「これはダム工事の犠牲者ではないか」とピンときた。戦時中、朱鞠内の雨竜(うりゅう)ダム建設のため、日本各地や朝鮮半島から集められ、過酷な強制労働に従事させられて亡くなった人たちだ。

 裏のささやぶに案内されると、足元に複数のくぼみがあるのに気付いた。「死者は土葬されると肉体が朽ちて地面がへこむ。犠牲者は今もそこに埋まっています」。驚くべき事実を告げられた。

 

【降り始めた雪がたちまち積もっていく朱鞠内湖畔に立つ殿平善彦。雨竜ダム(後方)での過酷な強制労働で命を落とした人たちに思いを寄せる=北海道幌加内町】

 ▽死者への手紙
 約60キロ離れた深川市の一乗寺で副住職をしていた殿平は、すぐさま仲間と調査を始めた。町役場に残る書類を調べると、日本人と韓国・朝鮮人の計110人が亡くなっていたことが分かった。

 本籍地の記録などをもとに、日本人の遺族だけでなく、ハングルに翻訳して韓国の遺族にも手紙で知らせた。宛名が分からないため、死者を受取人にして投函(とうかん)してみると、1カ月もせずに7人の遺族から返信があった。

 貧しい農村の出身者ばかりで、忠清北道に住む朴周東(パク・チュドン)からは「叔父の葬儀はどのように行われましたか。仏を韓国に移して霊魂を慰めたい」と丁寧な返事が届いた。

 「本来なら朱鞠内で死ぬ必要のない人たちだった。遺族の思いを知った以上、自分たちが遺骨を探すしかない」。雪どけ直後の80年春、殿平らの市民グループはささやぶで掘り起こしを始めた。

 4回にわたる発掘で計16体の遺骨が見つかった。雑草や根が絡まった骨は黒光りしており、頭蓋骨の眼窩(がんか)はこちらをにらんでいるように見えた。

 殿平は無残な死を遂げた人々を思った。浄土真宗では「人は念仏して死を迎え、浄土に生まれ仏になる」と教えられる。だが、この人は本当に浄土に行けたのだろうか。

 まだ30代の若い僧侶は宗教心を揺さぶられた。「誰にも悼まれなければ、死者になることすらできないのではないか」

 

【朴周東からの返信。右側は翻訳文(提供写真)】

【雨竜ダム工事犠牲者の墓標に手を合わせる殿平善彦=北海道幌加内町】

 ▽失意の帰国
 82年秋、殿平は初めて韓国を訪問した。遺骨を引き取ってもらえるかどうか、事前の交渉をするためだった。「遺骨を受け取った日本の遺族と同じように、韓国の遺族も喜んでくれるはずだ」

 しかし自分が招かれざる客だと気付くのに、時間はかからなかった。ある遺族は手土産も受け取らなかった。訪ねた農村では村人に詰問された。「おまえは日本人か。日本がここで何をしたか知っているのか」

 既に戦後40年近くが経過していたが、集まった村人は強制連行の実態をつぶさに語った。「村の若者は見つかると残らず日本に連れて行かれた。だから日中はみんな山の中に隠れていたんだ」

 遺骨を届けたい一心の殿平を待っていたのは、日本人に対する強い憤りだった。日本政府に謝罪や補償を求める遺族もいたが、自分は一市民としてここに来ただけだ。「喜んでもらえると期待したのが甘かったのか」。失意を抱えたまま韓国を離れるしかなかった。

 ▽断ち切られた命
 帰国後は犠牲者の慰霊碑建立など、国内でできる活動に力を注いだ。しかし、その殿平らを激しくののしる人物がいた。

 「何もしない者より、遺骨を掘ったのにそのままにしているおまえたちの方が悪い」。自身も朱鞠内で強制労働を体験した在日韓国人だった。同胞の遺骨を見て、怒りを抑えられないのが痛いほど伝わってきた。

 他方で、さまざまな経緯から受け取りを拒む遺族がいるのもまた現実だった。行き場を失った遺骨を見て殿平は思った。「人の死とは、残された者との関係性の上に成り立つのではないか。もしこの骨が自分だったら、死んでも死にきれない」

 80年代後半になると、韓国で急速に民主化が進み、日韓関係にもようやく変化の兆しが表れた。

 初訪問から9年後の91年、殿平は2度目の訪韓を試みる。最初の手紙に「叔父の霊魂を慰めたい」と返事をくれた後、音信不通だった朴と連絡が取れ、遺骨の引き取りを承諾してくれた。

 翌92年、届けられた遺骨を胸に抱き、遺族は異国で断ち切られた命に思いをはせた。法要では殿平もお経を上げた。長い年月を経て、遺骨はようやく「死者」になった。

【韓国で行われた法要で読経する殿平善彦=1992年】

【遺骨の返還のため、韓国に朴周東(中央)を訪ねた殿平善彦(右端)=1991年6月(提供写真)】

 あれから30余年。殿平はその後も道内で見つかった強制労働犠牲者の遺骨返還に関わってきた。

 返すことのできなかった遺骨もある。遺族が死者の無念の言葉を代弁するのを何度も聞いた。「人はつながりのある者に惜しまれ、見送られて初めて死者になることができる」。現実と向き合う中で到達した確信は、今も僧侶としての殿平を支えている。

(敬称略、文・名古谷隆彦、写真・今里彰利、2023年3月11日出稿、年齢や肩書は出稿当時)