長期連載‐国内

(5)熱くて意味ある空間を 譲れぬ一線、屈辱受け入れ

 自分の腕一本で生きられると信じていた。「こうなったら辞表を出すしかない」。とどまる選択肢は頭になかった。柳田尚久(やなぎだ・なおひさ)(65)は2008年3月、11年間勤めた茨城大付属小学校を退職し、28年間の教員生活に別れを告げた。50歳だった。

 

【茨城大付属小学校での最後の授業「国語」を行う柳田尚久=2008年3月、水戸市(同僚の高木輝夫さん撮影)】

 茨城県の公立小中学校の勤務を経て同校に赴任した。授業研究に対する熱意や、1人の児童のことを教員みなで徹底的に話し合う雰囲気が水に合った。尊敬する先輩からも「この学校に骨をうずめなさい」と言われ、道を定めたつもりだった。

 ところがその頃同校の人事方針が変わり、上司から公立小の教頭への異動を命じられた。管理職の仕事に興味はなく、何より想定外の異動が受け入れられなかった。引き留めてくれる同僚の声ももはや耳に入らなかった。

 ▽学びや
 新学期になった。働く場を失った柳田は、想像した以上に寂しさを感じていた。「自分で選んだ道じゃないか」と自らに言い聞かせながら考えた。「やれることがあるとすれば、多分塾だろう」

 進学塾ではなく、勉強が苦手だったり、学校に足が向かなかったりする子を相手にしよう。そう決めると、すぐに銀行に融資を依頼した。立地を考え、内装や備品にもこだわって準備を進めた。付属小時代の保護者も手伝ってくれた。

 3カ月後、教育委員会が入る県庁の真向かいに学びやはオープンした。名前は「元氣塾(げんきじゅく)」。9人の塾生がやってきた。

 緊張感と高揚感に包まれた初日の授業は、あっという間に終わった。柳田は帰り支度をして警備システムにカードを通した。「戸締まりが完了しました。お疲れさまでした」。誰もいない暗闇に無機質な声が響く。

 付属小で何度も聞いたおなじみの声だ。教員時代もいつも遅くまで働いた。やりがいも感じていた。しかし、自分の学びやを一から作り上げた充実感はまた格別だった。

 不覚にも涙が出た。駐車場に行き、車のシートに身を預けると力が抜けてしばらく動けなかった。

 

元気塾合宿を記録した写真集

 【「轍学舎」の生徒たちと柳田尚久】

 ▽ある塾生
 滑り出しは順調そのものだった。教員時代のつてもあって生徒は100人を超え、県内に2カ所目も開いた。担任の時にやっていたように、毎週のように手書きの〝学級通信〟を発行した。「熱くて意味のある学びの空間をつくっていこう」。創刊号で高らかに宣言した。

 教え子に一風変わった生徒がいた。中3から2年間通い続け、高校には行っていなかった。特定の場面になると、言葉が出てこない場面緘黙(かんもく)症の男子だった。柳田が「高校には行きたいの?」と聞いても返事はなかった。

 ある時、塾のスタッフが食事に連れ出し「塾長が心配していたよ」と話しかけると、生徒は意思を伝えられない負い目を感じていたのか、ふいに泣き出した。その話を伝え聞いた柳田が「おまえの気持ちはよく分かった」と頭をなでると、彼は照れくさそうに笑った。

 「教員時代の自分なら言葉で事情を説明するように求めていたかもしれない。彼みたいな子に接したくて、自分は塾を続けている気がする」。自らをさらけ出し、子どもが心を開くまでじっと待つ。ゆとりある空間ならではの関わり方は、柳田が理想とするものだった。

 生徒は次第に周囲と会話をするようになった。「算数の問題が分からない」と嘆く小学生には「そんなの分かんなくたって生きていけるよ」とぽつり。塾長の口癖をまねる姿が笑いを誘った。

 ▽再スタート
 柳田は学びの場を大切に育んでいった。教育内容にも自信があった。しかし、経営に関しては素人同然だった。中3生が抜ける3月には月謝が数十万円も減った。収支は目に見えて悪化し、塾の立ち上げに協力してくれた保護者からも「今の時代は進学に特化しないと厳しい」と進言された。

 経営の才覚のなさは自他ともに認めても、塾の在り方は譲れない一線だった。「進学塾にしてしまったら、自分が塾を始めた意味がなくなる」。突っ張ってはみたが、家賃も払えなくなり、これ以上人に迷惑はかけられないと腹をくくった。

 開塾から10年目の春、柳田は自己破産を申請した。「経営的にやっていけなくなりました」。保護者もおよそのことは察してくれたようだった。

 自家用車は差し押さえられ、裁判所に通う惨めな日々を送った。10年間の人生を象徴する「元氣塾」の屋号は、手放すしかなくなった。

 救いだったのは、塾の性格は変えずに「轍学舎(わだちがくしゃ)」として再スタートが切れたことだ。苦しい時もいつも味方になってくれた公立小時代の同僚が経営を引き継いでくれた。「もしあなたが進学塾に宗旨変えしていたら、自分はここにはいなかっただろう」と言いながら。

   

【「轍学舎」の「サポートクラス」には塾生やOBが訪れ、白板に絵を描いたり得意の数式を書いたり、ゲームをしたりと思い思いに過ごす。塾長の柳田尚久は優しく見守っていた=茨城県ひたちなか市】

 柳田は塾長のまま、今も塾生と向き合っている。切り盛りするのは相変わらず大変だ。生徒が増えればうれしいが、1人に割ける時間は減る。明日もまた、答えのない問いが待ち受けている。

(敬称略、文・名古谷隆彦、写真・藤井保政、2023年2月4日出稿、年齢や肩書は出稿当時)