長期連載‐国内

(3)やっと自由になれる 未練なき引退、後ろ盾捨て

 海外遠征から戻った直後で、時差ぼけが残っていたのかもしれない。練習相手に大外刈りをかけられ、その場にうずくまった。右足前十字靱帯(じんたい)の損傷だった。2008年3月、柔道78キロ級の野島(のじま)さえ(39)=旧姓中沢(なかざわ)=は、北京五輪の代表選考のまっただ中にいた。


 医師には「手術が必要だ」と言われたが、それでは半年後の本番に間に合わない。ごまかしながら競技を続け、何とか代表の座は手にした。ただメダル候補として臨んだ五輪は、実力を発揮できないまま初戦で敗れた。

 

【北京五輪の柔道女子78㌔級に出場した中沢さえ。実力を発揮できず初戦で敗れた=2008年8月(共同)】

 再起を懸けて競技を続けたが、過酷な練習に体が悲鳴を上げた。コーチの激しい叱責(しっせき)を受け、精神的にも追い込まれた。「自分は何のために柔道をやっているんだろう」。意欲を保てなくなり、翌09年に26歳で引退を決めた。将来を惜しむ声もあったが、野島には一切の未練はなかった。「これで柔道から離れられる。やっと自由になれる」


【記者会見で現役引退を表明する柔道女子の中沢さえ=2009年11月、東京都港区】

 ▽本心
 小さいころから、絵を描くのが好きだった。朝早く起き出しては、寝床の電気スタンドをともしてスケッチに没頭した。

 両親はそんな娘を見て「引っ込み思案で人見知りな性格」と感じ、小2の時に柔道をやらせてみた。体が大きく力もあったので、6年生の男子をいきなり背負いで投げてしまった。「それほど好きではないけど、勝てるから悪い気もしない」。幸か不幸か、自分の本心がよく分からないまま、柔道人生を歩み始めた。


 高校進学時には柔道を続けるか、美術を取るかで大きな決断を迫られた。「本当に好きなのは美術。でも活躍できるのは柔道」。誰かに強制されたわけではない。ただ15歳だった野島は、周囲の人たちが望むであろう現実的な道を選んだ。


 選択の正しさは、ほどなく証明されたように見えた。世界選手権で2度も準優勝し、美術好きの自分の中に信じられないほどの闘争本能が備わっていることに驚いた。

  

【ドーハ・アジア大会の柔道女子78㌔級で優勝した中沢さえ=2006年12月、カタール屋内競技場(共同)】

 「柔道はけんかみたいなもの。負けたくない気持ちが人より強い方が勝つ」。多くの観客が見守る中、悠然と畳に上がる時の高揚感も好きだった。


 その一方で記者の取材に応じる時には、どこか遠くを見据えるような言葉を口にした。「常にいろんなことに興味をもって生きていきたい。人間として成長したい」。他の選手たちが眼前の勝利に血眼になるそばで「人生は柔道だけじゃない」とでも主張するように。

 ▽反抗期
 引退した後も、野島は何度も柔道の夢を見た。練習ではコーチにしごかれ、試合に負けるとぼろくそに怒鳴られた。記憶はうそをつかなかった。


 かつての知り合いから「指導者をやらないか」と声をかけられても断った。五輪代表ともなれば柔道界と関係を持ち続けるのが不文律の世界だが、「理不尽な指導がまかり通る勝利至上主義の場には戻りたくない」と決意は固かった。


 「何となく他人の望む生き方をしてきたけど、自分の人生は自分でちゃんと決めたい」。野島の反抗期は、少し遅れてやって来た。ただその代償として、柔道界という大きな後ろ盾を失った。


 大学院を出た後は、父親の家具修理業の仕事を手伝ったり、理学療法士や柔道整復師を志したりもしたが、どれも長続きはせず、自力で生きる大変さを思い知った。


 柔道に背を向けたものの、華やかな舞台が忘れられず、物足りなさを感じている自分もいた。

 「結局私は何もしていない。柔道界に不義理を働いているだけではないか」。うしろめたさから親しい先輩に会うのもためらうようになった。

【効果を説明しながらストレッチを指導する野島さえ。鍼灸師の免許も取り、個人でトレーナー業を続けている=東京都港区】

 ▽町道場
 30歳を過ぎたころ、千葉県我孫子市にあるジムでトレーナーとして働き始めた。中高年に運動指導をする仕事だったが、野島は「会話の機会が少ないお年寄りのストレス解消になれば」と積極的に話しかけて回った。

 相手が健康になると思えば、嫌な顔をされても苦にはならなかった。「好奇心が上回れば、人見知りの性格なんてどうにでも変えられる」。自分は人と関わりたい人間なんだと初めて気付いた。

 女性のトレーナーを毛嫌いする80歳のおばあちゃんは、いつも1人でバイクをこいでいた。野島は、その人が来るとあえて近づいて行った。初めはつれない態度だったが、ある時さりげなく「あなたと話すと元気になるわね」と言われた。

 畳の上の高揚感とは違う。でも「たった一言がこれほど心を満たしてくれるのか」と思った。進むべき方向がおぼろげながら見えた気がした。

 その後、野島は鍼灸(しんきゅう)師の免許を取り、個人でトレーナー業を続けている。封印してきた「元五輪代表」の肩書も、素直に使えるようになった。

 昨年5月に婚姻届を出した夫も柔道経験者だ。「誰もが集える町道場を開きたい」と夢を聞かされているが、彼も強い選手の育成には興味がない。そんな柔道になら、また関わってみたいと思える。休みの日は陶芸教室に通いながら。

(敬称略、文・名古谷隆彦、写真・今里彰利、2023年1月21日出稿、年齢や肩書は出稿当時)