長期連載‐国内

(46)母の葛藤、寄り添い祈る 事実受け入れ、沈黙破る

 小高い丘に立つ自宅から眺める長崎湾の海は、いつも輝いていた。中学生だった菊池文子(きくち・ふみこ)(79)は毎年8月9日の原爆投下時間になると、その景色を見つめ黙とうした。普段優しい母が、この時だけは険しい顔で祈るように強いた。「うちも被爆したの?」。素朴な問いに答えてはくれなかった。母の口から、その理由が語られることは最後までなかった。

菊池文子は岩手に住んで20年が過ぎたが、今も冬の寒さは苦手だ。最近骨折した左手のギプスがまだ取れない、とこぼした=岩手県内

 ▽思い込み

 実家には経済的な余裕がなく、菊池は中学卒業後、地元の缶詰製造会社に入社した。丁寧な仕事ぶりが評価され、19歳で神奈川の支社に転勤を打診された。支度金が支給されると聞き即決した。

 酒浸りの父に殴られ罵倒されながら6人の子どもを育てた母を、少しでも楽させたかった。年上の男兄弟が多かったので、母は末っ子気質の菊池を特に気にかけた。

 生まれたのは、爆心地から約4・7キロの場所にある実家だ。祖父やきょうだいだけでなく、1歳だった菊池も被爆を免れることはできなかった。

 中学生になったころ、被爆者健康手帳の交付申請が始まった。家族は申請するそぶりを見せず、被爆の事実も伝えなかった。菊池は「うちは被爆していない」と思い込んだ。

 神奈川で同僚の女性に長崎出身と告げたある日、相手の顔から表情が消え、避けられているような気がした。「被爆者と思われたのかな」と感じたが、それ以上深くは考えなかった。

 新しい生活環境には体がついていかず、1年ほどで会社を退職した。兄のつてで都内の八百屋に勤め、そこで知り合った男性と交際し、埼玉の畜産農家に嫁いだ。

1962年9月、職場の同僚と旅行を楽しむ18歳の頃の菊池文子(中央)=長崎県内(提供写真)

 ▽沈黙

 夫の一家は大農家だった。菊池は毎日泥まみれになりながら、慣れない農作業をこなした。23歳で出産する直前、病院へ向かう途中に夫の家族から信じられない言葉を浴びせられた。「おまえは被爆者だ。四肢のない子どもが生まれるだろう」

 菊池の実家が十分な結婚祝いを送らず、夫一家が不満を持っていることは知っていた。ただ、嫌みにしてはひどすぎる。これまで何も言わなかった夫は知っていたかのような態度を取り、菊池をかばってはくれなかった。

 結婚前、訪れた長崎の実家で母から何か聞いたのだろうか。職場の同僚に避けられて以来、心に封じ込めてきた疑念が再び頭をもたげた。

 無意識に受話器に手を伸ばし、母に尋ねた。

 「私って被爆者?」

 「...。苦しかったらいつでも帰ってこんね」

 沈黙が続いた。それが答えだった。

 なんでもっと早く言ってくれなかったの。生まれてくるわが子に悪影響はないの。怒りにも似た感情が芽生えた。

 母は事実を語らなかった。その代わり「離婚してもいいから帰郷して」と何度も求めた。

 事実を隠してきた責任を果たそうとするかのように聞こえた。感情にまかせてぶつけそうになった言葉を引っ込めた。

 その後息子が生まれ、親の気持ちを考えられるようになると、わが子に真実を伝えられなかった葛藤が理解できるようになった。被爆者と知った場合、娘が差別を受ける可能性を母は考えたのだろう。

 今度は菊池が同じ立場に立たされた。息子に被爆2世であることを伝えるべきなのか。堂々巡りを続けたが、最終的には母と同じ選択をした。被爆者であることは自分の心の内にとどめた。

 ▽ゆるし

 被爆者と分かっても、気に留めない友人がいる一方で、仲良くなった後に離れていく人もいた。「被爆者ってうつるんでしょ?」。去り際の一言に胸を突かれた。仲良くなるほど、相手を信じて話すべきか、言わない方がよいのか悩んだ。

 息子が二十歳を過ぎたのを機に、自分を守ろうとしなかった夫と離婚することを決意した。数年後、再婚先の実家がある岩手に移住した。

 被爆時の状況を初めて知ったのは、2014年に帰省した時だ。菊池家で唯一存命だった次兄宅を訪れ、当時の状況を聞いた。口を一文字に結んでいた次兄は、しばらく間を置いて言った。「祖父ときょうだいが文子に覆いかぶさって、爆風から守ったとよ」

 菊池は感謝の気持ちを伝えるのがやっとで、言葉が見つからなかった。

 子どものころ、口酸っぱく祈ることを求め続けた母を思い浮かべた。娘に真実を告げられない負い目を抱え、共に祈ることでゆるしを求めていたのかもしれない。死に際に「文子」と連呼したという心中を思った。

 移住後、岩手の被爆者団体を紹介された。夫の親族が広島の被爆者だったのが縁だ。積極的に活動はしなかったが、22年から高校生らに被爆後に受けた差別体験などを語っている。

 帰郷させたがった母の声に耳も傾けず、死に目にも会えなかった。最後まで親不孝だった私を許してくれるだろうか。母の写真を握りしめながら、祈りをささげている。

(敬称略、文・待山祥平、写真・今里彰利、2023年12月16日出稿、年齢や肩書は出稿当時)

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遠野に住んで20年が過ぎたが今も冬の寒さは苦手だ=岩手県遠野市