長期連載‐国内

(43)この社会が正解なのか 農業支えに本屋で生きる

 その小さな本屋は、淡水と海水が混じり合う汽水池のほとりに立つ。異質な者同士が出会える空間になるように。まだ見ぬ本と巡り合い、新たな自分へと離陸できるように。ふたつの願いを込め、店主の森哲也(もり・てつや)(37)は「汽水空港」と名付けた。

 だが、こだわり抜いた約5千冊を所蔵する独立系書店は、専業の仕事ではない。午前中は田畑を耕し作物を育て、午後は稼ぎの定まらない書店で過ごす。両者がそろって初めて、理想の生き方に近づくことができる。

倉庫を改装して造った本屋「汽水空港」の前に立つ森哲也。淡水と海水が混じり合う東郷池に面している=鳥取県湯梨浜町

 ▽渇望

 早熟な子どもだった。幼稚園の頃、テレビで見たCMに衝撃を受けた。スーツを着たサラリーマンが、けたたましい歌声で迫ってくる。「24時間戦えますか」。栄養ドリンクの宣伝だった。

 直感的に恐怖を覚えた。「会社のために奴隷のような人間になれということだろうか」。不安になってサラリーマンの父に尋ねた。「大人はずっと働き続けないといけないの?」。返ってきた答えは「まあそうかな」。

 そんな過酷な組織に自分はなじめそうもない。以来、会社員とは違う生き方を見つけることが人生の大問題になった。

 高校時代のアルバイト先では、社員がいつもさえない表情でぼやいていた。仕事を卑下し「ちゃんと勉強しないと、君も私たちみたいになっちゃうよ」。会社のパーツとして役目を果たす生き方は、つらそうに見えた。

 勉強は得意でなかったが、彼らのような大人にはなりたくなかった。しかし、そのバイト仕事すら満足にこなせない自分はもっと惨めだった。どんなバイトをやっても、人より覚えが悪かった。

 「能力が足りないから仕方がないのか。全部自分の責任だ」。モデルとなる生き方が見つからず、もがいていた。心のどこかで尊敬できる大人を渇望していた。

 救ってくれたのは本だった。世界には見知らぬ土地を旅し、自らの力で可能性を切り開いていく生命力あふれる人たちがいることを知った。身の回りの大人とは全く違う価値観が新鮮だった。

東京・新宿のライブハウスで同じ大学のバンド仲間と森哲也(右端)。どうやって生きていこうか悩んでいた=2007年(提供写真)

 ▽移住

 大学3年の時、人生を決定づける一冊に巡り合った。「懐かしい未来」。ヒマラヤ山麓に広がる集落に近代化の波が押し寄せ、素朴な生活を続けてきた住民たちの心が、次第にむしばまれていく様子が描かれていた。

 目の前の日本社会の姿と重なって見えた。近代化や資本主義を自明とする生き方だから、これほど多くの人が苦しむのではないか。「今ある社会や制度は唯一の正解ではないはずだ」。新たな見方を手に入れ、競争社会の一員にならなくても生きていける気がした。

 自分が本に助けられたように、社会や学校の価値観になじめない人のために本屋をやりたいと思った。それは「もう一つの学校」として社会変革を促す力にもなるはずだ。

 「今どき本屋はもうからない」と言われるが、食べ物を作って自給できれば飢え死にはしないだろう。腹をくくると、ようやく視界が開けた。

 大学を卒業後、埼玉県と栃木県で2年間農業研修を受けた。終了間際の2011年3月、東日本大震災が起きた。放射能から逃れ、農業ができる土地を探すため、千葉県の実家から自転車で西日本を目指した。

 旅の途中「鳥取県に安い物件がある」と聞いて移住を決め、左官業のバイトで建築の知識を学びながら準備を進めた。月5千円で借りた湯梨浜町の小屋を自ら改装し、15年に開業にこぎ着けた。

 ▽デモ

 ようやく手に入れた自分の城は、著者の思想や感情を詰め込んだ場所に思えた。その中には、必ずしもかなわなかった願いもある。5千冊分の人が、ここで声を上げ続けている。まるで小さな町で常にデモが繰り広げられているようなものだ。

 だが、書店の経営は想像以上に厳しかった。開店から3カ月目には、客が一人も来ない1週間を経験した。不安で本も読めなくなり、SNSに「今日も誰も来ない」と投稿し、気を紛らわせた。

 農作物で暮らしを立てるのも簡単ではなかった。急場はバイトの掛け持ちでしのいだが、追い打ちをかけるように鳥取県中部地震が発生。書店は文字通り傾き、一時閉店に追い込まれた。気付けば「もう終わりだ」と口走っていた。うつ状態の自分を支えてくれたのは、その後結婚することになる妻明菜(あきな)(37)だった。

 2人で穏やかな時間を過ごすうち、少しずつ元気を取り戻した。ただ冷静に考えると、本屋をやらない方が金銭的にも精神的にも楽に生きられることに気付いてしまった。田畑で農作業をする日々は充実していた。本屋がなくても家族と幸せに暮らすことはできる。

 それでも、自分は本屋を足掛かりに社会を変革したかったのではなかったか。多様な人が集える原っぱのような本屋を。

 汽水空港は18年、リニューアルオープンした。本を求める読者は地域外からもやって来る。人口約1万6千人の町で、デモは静かに続いている。

(敬称略、文・名古谷隆彦、写真・堀誠、2023年11月25日出稿、年齢や肩書は出稿当時)

「汽水空港」には哲学、写真集、古本など様々な本がそろえられている=鳥取県湯梨浜町