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歩み来て、未来へ--ニッポン近代考

炎の記憶を乗り越えて シベリアに残る二つの歌

シベリア抑留関連地

 シベリアで死者の歌に出合った。

 生きてて良かったね/私みたいにならなくて/小屋の中で焼き殺された/屋根に逃げても弾の雨/日本人のやったこと/日本人のやったこと...

 1919年3月22日。ロシア革命後の内戦に乗じた「シベリア出兵」で極東支配を狙った旧日本軍は、革命政権側パルチザンの拠点とみたアムール州イワノフカ村を焼き払った。

 犠牲者は無力な村民だった。村の記録で死者は300人を超える。小屋に閉じ込め36人を焼き殺した跡に炎の碑が立つ。作詞作曲者不詳の「炎のイワノフカ」は、高齢の女性が無伴奏で歌う録音が村の史料館に残る。257人の銃殺現場にも慰霊の碑があった。

 教師ガリーナ・コロスクツェワ(61)は父母から目撃談を聞いて育った。「女も子どもも銃剣でとどめを刺された。教会だけ焼け残り、死体が散乱していたそうです」

 コロスクツェワは最近、郷土史家らが教会の埋葬記録や聞き取り調査でつくった犠牲者名簿に祖父の名がないことに気づき、追加を申請した。事件は終わっていない。

 毎年、悲劇の日に、村人は総出でろうそくをともし慰霊碑を訪れる。炎の記憶が世代を超えて受け継がれてきた。

和解

手を合わせる遺族

父・笹谷隆次郎の埋葬地で手を合わせる(左から右へ)荻野和代、夫の源吾、娘の史枝=ロシア・ブラゴベシチェンスク

 94年、1人の日本人が訪れた。元抑留者の慰霊碑を建てようと埋葬地を探していた全国抑留者補償協議会会長の斎藤六郎。「日本人の墓はありませんか」「あなたはこの村で日本が何をしたか知らないのですか」

 斎藤とこんな会話をした村長のゲオルギー・ウス(84)は今も現役だ。「抑留と出兵の犠牲者をともに慰める日ロ合同の碑を提案したのは斎藤さんだった。恨みは忘れようと思った」

 観音像のレリーフを埋め込み、ギリシャ正教の十字架を頂く白い慰霊碑が村にできたのは翌95年7月。近くに日本人兵士が眠る。費用は元抑留者の募金で賄った。12月、斎藤は役割を終えたように72歳で急逝する。

 除幕式で読経した僧の横山周導(84)も元抑留者だ。毎夏、ロシア墓参団を組織、2008年8月、14回目のイワノフカ訪問を果たした。「誰かが毎年、お参りしなきゃいかんが、ワシはいつまで来られるか...」。墓参団を日ロ友好の民間非営利団体(NPO)に変えた。20代の若い女性も加わり、村の少年合唱団との交流についても話し合えるようになった。

執念

教会の前の4世代

ロシア正教の教会の前で、ほほ笑む4世代の女性たち。双子のひ孫を抱く娘(左)と孫(右)。90年前の惨劇が信じられないほど平和に見える。母(中央)にもその記憶はない=ロシア・イワノフカ村(撮影・間山公雅、共同)

 初めて参加した荻野和代(65)は、抑留中に死んだ父の笹谷隆次郎を知らない。母が元気なうちにと墓参を願っても埋葬地が不明だった。

 1991年、ゴルバチョフ・ソ連大統領が持参した名簿に「ササタニ・タカビロ」の名を見たが、埋葬地は分からなかった。2006年、元抑留者の村山常雄(82)が独力で編んだ名簿で、中ロ国境に近いブラゴベシチェンスクの「中央病院墓地」に父が眠ることを知る。

 村山は70歳でパソコンを覚え、日ロの資料を調べ、漢字の名簿を初めて作った。老兵士の執念が父の居場所をつかんでいた。和代は村山の勧めで厚生省に問い合わせて、やっと個人記録の存在を知る。3年前にロシアから届いていたが、遺族に通知はまだなかった。

 「タカビロ」が隆次郎になるまで15年の歳月がかかった。「個人にできて、なぜ国にできないのか」。和代には、わだかまりが残る。

 明治維新に始まる日本の近代は、武士の仕事だった戦争に、普通の国民を引きずり込んだ。国家の運命と、農民や商人、その家族の運命が重なり、戦場は国民が国民を殺す場となった。

 繊維の町、大阪・船場のボンボンだった笹谷は40歳を目前に召集された。「病弱で重労働に耐えられなかったのでは」。遺骨もない空の木箱を前に母が泣いていたことを和代は覚えている。

犠牲

 墓地は訪れる人も絶え20年前に閉ざされたままだった。鉄の鍵をはずすと緑色の木戸が開き、和代と夫の源吾、娘の史枝(32)が、シラカバ林に吸い込まれた。野草が風に揺れ、墓碑もない地に手を合わせた。

 史枝はその場から携帯電話で、病院の祖母に写真を送った。96歳の祖母は埋葬地判明で安心したのか転んで骨折、翌日が手術だった。

 キンミズヒキの種が史枝にまとわりついた。「おじいちゃんを連れて帰ろう」。そう思った。

 広大な大豆畑の向こうで、もう1つの歌が墓参団を待っていた。ユウヤケコヤケデヒガコレテ...。ラズドリノエ村の パーベル・シドレンコ(76) は、夕焼け小焼けの歌を「アリタサン」に習った。子を日本に残した抑留兵士は、シドレンコの家で揺りかごの赤子を見ていた。

 シベリア出兵は膨大な犠牲を伴い失敗したが、日本はさらに戦争への道を進んだ。非道なシベリア抑留はその先にあった。イワノフカの惨劇から90年。国家が忘れた無名の人々を、歴史と記憶に刻み、和平を未来につなぐ営みがある。

 日本人が歩んできた「近代」。人々はそれをどう考え、これからどう生きようとしているのか。日本各地に、海外に尋ね歩く。

癒やし

 大正時代のシベリア出兵からソ連崩壊のころまで、中国国境に近いイワノフカ村を訪れる外国人はまれだった。70年を超える歳月は、隔絶された環境で悲劇の記憶を継承しつつ、日本人による癒やしを待つためにあったのかもしれない。

 だが、慰霊碑建立だけで和解ができたわけではない。14年間、毎年、慰霊に来た横山周導の誠意がなければ、日本人の信用は回復しなかったと思う。死亡者名簿を作成した村山常雄は「弔うとは、とぶらう(訪う)こと」と言う。

 「無傷で帰ってきたで」と横山は私に語った。凍土に戦友を眠らせ、自分は生き残ったという心の痛みもまた、癒やされねばならない。

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