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小高い丘に立つ自宅から眺める長崎湾の海は、いつも輝いていた。中学生だった菊池文子(きくち・ふみこ)(79)は毎年8月9日の原爆投下時間になると、その景色を見つめ黙とうした。普段優しい母が、この時だけは険しい顔で祈るように強いた。「うちも被爆したの?」。素朴な問いに答えてはくれなかった。母の口から、その理由が...
2010年秋に保育園で起きた窒息事故で、栗並(くりなみ)えみ(44)は1歳の長男寛也(ひろや)を失った。事故の翌年、パソコンの画面を見ると、ネット上には自分を責めるコメントが並んでいた。 「働いて、子どもの面倒を見ない母親が悪い」「かわいい盛りなのに、なぜ預けるの?」。事故が地元メディアに取り上げられたこ...
台所に立つと、敷きっぱなしの布団に座る母さんの背中が目に入る。周りには洋服や書類が散らばり、足の踏み場もない。居間のテレビから笑い声だけが響いていた。 中学生だった尾﨑瑠南(おざき・るな)(23)は、友人の家に遊びに行くと、いつも現実を思い知らされた。そこでは母親が「おかえり」と子どもを出迎え、晩ごはんを...
その小さな本屋は、淡水と海水が混じり合う汽水池のほとりに立つ。異質な者同士が出会える空間になるように。まだ見ぬ本と巡り合い、新たな自分へと離陸できるように。ふたつの願いを込め、店主の森哲也(もり・てつや)(37)は「汽水空港」と名付けた。 だが、こだわり抜いた約5千冊を所蔵する独立系書店は、専業の仕事では...
桜だけは残っていた。西日を浴びた大木を、空を見上げるように見詰める。植えた時には、腰の高さもなかった。10月上旬、千葉広和(ちば・ひろかず)(75)は、若き日に入所していた宮城県大和町の職業訓練施設「船形学園」跡地に立った。 約4年前、数十年ぶりに訪れた時は更地に草が生い茂っていた。今はコンクリートで整地...
娘は生後100日でこの世を去った。斎藤無冥(さいとう・むみょう)(58)にはその時の記憶が欠けている。息を引き取った瞬間から、思い出す景色は真っ白で、どうやって家に帰ったのかも分からない。ただ、小さな亡きがらに優しく声をかけ続ける妻の表情だけは覚えている。数カ月後、斎藤はその妻を置き去りにして家を出た。 【...
※この連載は5月17日に岩波書店から『迷いのない人生なんて』として刊行予定です 薄暗い舞台に2人の女性。1人は座ってピアノを弾くしぐさ、もう1人はその様子を背後から見ている。役柄は娘と母だ。「もう一回やり直し」。母の言葉に、娘が半泣きの声で応じる。「お母さん、もうやめよう」 「だめよ、お母さんはね、何か一...
高橋美香(たかはし・みか)(49)が取材中にシャッターを押せなくなったのは、2001年1月のパレスチナ自治区ガザでのことだった。息子の遺影を胸に抱えた年老いた女性が、こちらを見つめている。 パレスチナは、イスラエルに対する抵抗運動「インティファーダ」の渦中にあった。重武装のイスラエル兵への抵抗手段は、投石...
いつもはLINE(ライン)で連絡してくる妻(43)から、珍しく電話がかかってきた。職場にいた菅家英昭(かんけ・ひであき)(50)は不吉な予感がした。「転んで意識がなくなった。どうしよう」。電話口で息子(6)の名前を繰り返し叫んでいる。妻はパニックになっていた。 救急搬送された息子は手術を受けたが、意識が戻...
2011年秋、米大リーグでイチロー(マリナーズなど)が10年間続けてきたシーズン200安打が途切れた。スポーツ紙のイチロー番記者だった浮田圭一郎(うきた・けいいちろう)(45)は苦悩していた。応援したいのに、自らの記事でそれを表現することができない。このままでは「憧れを超えた存在」をおとしめることにならない...
インド・デカン高原の大地を乗り合いバスが走る。1980年、東大3年生だった中野民夫(なかの・たみお)(66)は、バスの最後部に1人で座っていた。 人々が降りては乗り、また降りる様子をながめる。外には羊や牛がいて、のどかで雄大な景色が広がる。この人たち、この光景に二度と遭遇することはない。今ここにいる不思議...
※この連載は5月17日に岩波書店から『迷いのない人生なんて』として刊行予定です 2021年6月、東京大4年生だった木田塔子(きだ・とうこ)(24)は、都内の病院でベッドの上にいた。 泥酔していつもより深く手首を切った。リストカットは高校生の時から。切ると意識が痛みに向き、胸がプレス機で押しつぶされるような...
プロ野球オリックスや西武などでプレーした水尾嘉孝(みずお・よしたか)(55)は、プロ野球史上2人目の契約金1億円ルーキーだった。それは同時に「消えたドラフト1位」と呼ばれる過去でもある。順風とは言えない選手時代を過ごし、現役引退後は15年近く野球から距離を置いた。 【真夏のグラウンドで子どもたちの練習を...
※この連載は5月17日に岩波書店から『迷いのない人生なんて』として刊行予定です 金属バットの甲高い打球音が聞こえたのに視界からボールが消えた。気付いたときにはぼてぼてと体の真横を通り抜けて外野に転がった。草野球仲間からやじが飛ぶ中、ショートを守っていた山下泰三(やました・たいぞう)(75)=京都市在住=は胸...
朝一番、社長の父は全従業員を宴会場に呼び集め、旅館が破産したことを告げた。7代目を継ぐはずだった専務の白木浩一郎(しろき・こういちろう)(51)は、黙って傍らに立っていた。 父は従業員に頼んだ。「無報酬になるだろうが最後のお客さんがチェックアウトするまでの6日間、営業を継続したい」 無言でうつむいていた...
スマートフォンの待ち受け画面には、「農魂」との力強い文字が浮かぶ。「土着のものを守る。大地を守る。それこそが保守の考えだと思うんだよね」。沖縄県東村の山中で、中村之菊(なかむら・みどり)(44)は車からメガホンを取り出すと、肩にかけて歩き出した。その先にあるのは、米軍北部訓練場の入り口ゲートだ。 規制線ぎ...
彫刻家の福江悦子(ふくえ・えつこ)(54)は10歳のとき、伯母からこう言われた。「おまえは生まれてすぐ、捨てられそうになったんだよ」 北海道旭川市の生家はその頃、立て続けに兄妹が生まれ困窮していた。家族会議が開かれて両親が決心を明かしたのだという。祖父に問いただすと「でもなんとかみんなで育てようってなった...
手術前日、病室のベッドの上。がんを告知されたショックから立ち直れずにいた大津一貴(おおつ・かずたか)(33)の脳裏に、降ってくるように考えがわいた。「死ぬかもしれないなら、サッカーがしたい」。このとき22歳。既に就職して働いていた。少年時代に抱いたプロ選手の夢は、諦めたはずだった。 【サッカー教室で子どもた...
1991年夏、大学生だった川村久恵(かわむら・ひさえ)(52)は、北海道平取町の二風谷を旅行で訪れ、初めてアイヌ民族の文化に直接触れた。アイヌの歴史に興味を持ち、翌年には東京で行われた伝統儀式「カムイノミ」に参加した。そこで出会ったのが旭川市にある川村カ子ト(かわむらかねと)アイヌ記念館の館長、川村兼一(か...
高校を卒業したばかりの中島坊童(なかじま・ぼうどう)(55)は埼玉県行田市の自宅で見ていたニュースにくぎ付けになった。ソファから立ち上がり、画面に近づく。1987年6月。「先生」と慕った男が手錠をかけられ、警察に連行される姿が映し出されていた。 先生は私塾を開いており、少年たちが集団生活を送っていた。アナ...
2015年春、福島大4年だった高橋恵子(たかはし・けいこ)(30)は、仙台市で開かれた国連防災世界会議に登壇した。11年3月11日の東京電力福島第1原発事故で故郷を追われた避難者として、経験や放射線教育の重要性を英語で訴えた。「今回の話が教訓となり、原発事故が二度と起きないことを願います」 原発事故後に何...
去年の夏休み明けのある日、神奈川県の鶴見養護学校(今年4月に鶴見支援学校に改称)の教員、大内紀彦(おおうち・としひこ)(47)にうれしい出来事があった。「おおうちせんせい」。担任をしていた中等部1年の女子生徒が、何のヒントもなしに、初めて自分の名前を呼んだ。 女子生徒は知的障害があり、入学以来、大内の名前...
幼稚園の園長である沼田和也(ぬまた・かずや)(50)は疲れ果てていた。2015年、幼保連携型認定こども園移行のため、作業に取り組んでいた。山積みの書類を前に思うのは「自分は保育の専門家じゃない」。沼田は日本キリスト教団の牧師。ある地方都市の教会に併設された幼稚園を預かる立場だった。 早朝から夜まで職員室に...
「おんな声」で話せば、見た目が多少男性のままでも「ボーイッシュな女の子」になれる。トランスジェンダー女性にとっての声の重要性を、工藤理江(くどう・りえ)(48)はそんなふうに説明する。声帯の使い方を自在に変え、普段は疑いようのない女性の声で話す。「ほら、こうすると男になるでしょ」。親しい友人にはおどけて男性...
世界最大級のアオサンゴ群生地、沖縄県・石垣島の白保海岸の沖に、新石垣空港を建設させないよう反対運動に奔走していた山里節子(やまざと・せつこ)(85)は目を疑った。 「軍事利用の危険性/白保海岸の空港建設」。1985年5月、沖縄タイムスに、こんな見出しの記事が載った。「白保海岸が軍事上の目的から、大型飛行場...
世間でもてはやされる故郷の姿を、どこか冷めた目で眺めていた。「そんなにええもんやろか」。徳島県南部の旧海部(かいふ)町(海陽町)は10年ほど前、「自殺の発生率が全国で最も低い自治体」として一躍脚光を浴びた。 生まれ育った土地に愛着はある。ただ、内田加奈(うちだ・かな)(45)にとっては何の変哲もない田舎で...
京阪神の人の間では、その地名は独特のニュアンスを持って口に上る。兵庫県尼崎市。「あま」と呼ばれることもある。いろんな地区があって、今は様変わりしているのに、貧しい家が多くて柄が悪いというイメージが濃い。ダウンタウンの松本人志と浜田雅功が生まれ育った町でもある。 現代美術家の松田修(まつだ・おさむ)(44)...
プロテスタントの牧師花田憲彦(はなだ・のりひこ)(55)が神の存在を認めたのは、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)への入信がきっかけだった。 【礼拝を終えた花田憲彦。「弱さを認め、ありのままをさらけ出すことを神様は願っています」と語りかけた=東京都立川市】 福岡県宗像市の宗教とは無縁の教員一家に、次...
10年前のその日は前触れなくやって来た。「なんであそこに奈央(なお)の写真があるの?」。山本秀勝(やまもと・ひでかつ)(71)が帰宅すると、仏壇に飾られた次女の遺影を見て、妻のみよ子が不思議そうに聞いてきた。 あたりをキョロキョロ見渡し、混乱している様子の妻を見て、明らかに不自然だと感じた。 「奈央はい...
「何言っとんのかわからん。ちゃんとしゃべれ」。電話口の男性はいら立たしげにそう言った。名古屋市にある精神科に特化した訪問看護ステーション「らしさ」の看護師、伊神敬人(いかみ・ゆきひと)(44)が、電話で病院に患者の病状報告をしたときのことだ。「またか」。伊神は、そんなときたまらなく悲しくなる。 小学校に上...
※この連載は5月17日に岩波書店から『迷いのない人生なんて』として刊行予定です 目の前で土下座する後輩は、小刻みに体を震わせていた。「すみません。すみません」。任せていた支店の仕事を放り出し、遊び歩いていたことを認めた。レジからは売上金もなくなっていた。 カレー店の店主荻野善弘(おぎの・よしひろ)(44)...
いつも心の中には海があった。部屋いっぱいに広がるキャンバスは三上真穂(みかみ・まほ)(24)の体よりずっと大きい。暗い青の中に原色が散り、打ち寄せる波が描き込まれている。「地元の、種差(たねさし)海岸の海です」と穏やかな声で話す。美術大の卒業制作として、自身の心象風景を描いた絵には「洞然(どうぜん)」と名付...
心を病んだ母は、自死の瀬戸際まで追い詰められていた。「どうして一生懸命信仰しているのに病気になるの。どうしてエホバはお母さんを助けてくれないの」。坂根真実(さかね・まみ)(46)が泣きながら口にしたのは、家族が長年信じてきた宗教の「神」の名だった。12年前のことだ。 「エホバの証人」の宗教2世の坂根は当時...
薬物に手を出す者は意志の弱い愚か者だろうか。いや、人はどうしようもない「痛み」を癒やすために、声にならない声を表現しようとするのだと今、倉田(くらた)めばは考える。 【対談で自身の経験を語る倉田めば。自分の心と向き合って紡がれる言葉が、聴衆に深い気付きを与える=東京都内】 とびきりの優等生だった。北海...
【焙煎機でローストされたばかりのコーヒー豆の熱を冷まし、より分ける八尾敬子。香ばしい匂いがし、メンバーとコーヒー談議に話が弾む。後ろでは、ひいた豆をドリップバッグにする作業が続く=兵庫県宝塚市の珈琲焙煎工房Hug】 ピンク色の壁に赤いひさしと白い扉。かわいらしい外観の建物が兵庫県宝塚市の住宅街の一角にあ...
風花が舞う冬木立の奥に月山(1984メートル)がそびえる。山形県の霊峰に、長崎市生まれの伊東優(いとう・ゆう)(36)は、ひと目見て心を打たれた。2016年冬、移住体験で山麓の西川町大井沢を訪れた。この地に羅針盤のようにいざなってくれたのは、皮肉にも家庭を捨てた父だった。 【山あいの西川町大井沢の集落に...
1976年秋、北海道幌加内町(ほろかないちょう)の朱鞠内湖(しゅまりないこ)に遊びに行った浄土真宗の僧侶殿平善彦(とのひら・よしひこ)(77)は、近くにある光顕寺(こうけんじ)の関係者に呼び止められた。引き取り手のない位牌(いはい)があるという。寺を訪ねると、段ボール箱に約80基の位牌が保管されており、日本...
新井雄治(あらい・ゆうじ)(71)の義父は戦時中、茨城県の海軍航空隊で少年飛行兵を訓練する軍人だった。92歳で亡くなるまで、会えば特攻隊として送り出した若者たちのことを語ってくれた。「でも敵艦にたどり着く前に、みな撃墜されてしまったんだよ」 口ぶりからは後悔する様子がうかがえた。最後は自らも特攻を命じられ...
人前で言葉が詰まるのは初めての経験だった。2018年6月、東京都足立区の印刷会社「ミツノ」の社長、田中克治(たなか・かつじ)(68)は、食堂に集めた9人の従業員に倒産を告げた。「悔しいけれど、終わりを決断せざるを得ませんでした」 【仕事の行き帰りに立ち寄る散歩道。下町の風情が残る路地と奥に見えるスカイツ...
吉田千寿子(よしだ・ちじゅこ)(86)は、滑らかな手つきでティッシュを着物の襟元の形に折り畳んでいく。「肌さ沿うように、端をキュッと」。東日本大震災後に移り住んだ岩手県陸前高田市の自宅の居間。修業時代、師匠の着付けをまねて繰り返した手技が、視力を失った今も身に染みている。 【津波で流された自宅があった...
あの日の朝は雪が降っていなかった。「学校まで送ろうか」。浅井道子(あさい・みちこ)(57)が息子譲(ゆずる)にかけた最後の言葉は、いつもの何げない一言だった。「いや、大丈夫」。そう言って自転車に飛び乗った譲が雪山から帰ってくることはなかった。2日後のほぼ同時刻、雪崩が起きた。高校2年生の17歳。早すぎる死だ...
自分の腕一本で生きられると信じていた。「こうなったら辞表を出すしかない」。とどまる選択肢は頭になかった。柳田尚久(やなぎだ・なおひさ)(65)は2008年3月、11年間勤めた茨城大付属小学校を退職し、28年間の教員生活に別れを告げた。50歳だった。 【茨城大付属小学校での最後の授業「国語」を行う柳田尚久...
25年ほど前のことだ。奥川拓二(おくがわ・たくじ)(60)がホームレスになって、3カ月がたとうとしていた。34歳の夏だった。公園や高架下を渡り歩き、その足は帰巣本能のように大阪市旭区の実家に近づく。だが、すでに絶縁されていた両親の元には顔を出せない。仕方なく少し離れた公園で夜を明かした。 【かつて寝泊まりし...
海外遠征から戻った直後で、時差ぼけが残っていたのかもしれない。練習相手に大外刈りをかけられ、その場にうずくまった。右足前十字靱帯(じんたい)の損傷だった。2008年3月、柔道78キロ級の野島(のじま)さえ(39)=旧姓中沢(なかざわ)=は、北京五輪の代表選考のまっただ中にいた。 医師には「手術が必要だ」と...
北海道の襟裳岬に近い太平洋に面した、浦河という小さな町がある。大黒座はその町の映画館。建物は少しくたびれているが、町の、いわば文化の中心だ。この日はそこで、ジャズベースのソロライブが開かれていた。背中を丸めてウッドベースを奏でるのは、この町に住む立花泰彦(たちばな・やすひこ)(67)。東京のジャズシーンで鳴...
場面が進むにつれ、違和感が募っていく。1999年にダウン症の息子、秋雪(あきゆき)を亡くした写真家の加藤浩美(かとう・ひろみ)(58)は、それから5年後、息子を主人公にしたドラマの完成試写会に臨んでいた。「これは本当に秋雪の物語なんだろうか」。脚色された内容に戸惑った。 【1998年夏、茨城県の大洗...